描くに値するものは、誰が決めるのか——ギュスターヴ・クールベ
一八四〇年代の、大きな仕掛け
1855年の小屋の前に、彼はすでに二つの大作で名を知られていた。
ひとつは、故郷オルナンでの葬儀を描いた作品である。横6メートルを超える大画面に、村人が数十人並ぶ。
もうひとつは、道端で石を割る二人の労働者を描いた作品だ(第二次大戦中に失われている)。
いずれも、歴史画の寸法で、名も無い人々を描いている。
当時の批評は激しく反発した。醜い、下品だ、という言葉が並んだ。
問題にされたのは、描かれ方ではない。その主題に、その大きさを与えたことである。
寸法は、格を意味していた。格を勝手に付け替えたことが、怒りを買った。
「天使を見たことがない」
彼の言葉として、しばしば引かれる一節がある。
天使を描けと言われたら、天使を見せてくれ、そうしたら描く——という趣旨である。
出所は複数の伝聞にまたがっており、正確な文言も文脈も定まっていない。警句として一人歩きしている部分が大きい。
ただ、この態度自体は作品と一致している。
彼の画面には、神話も寓意もほとんど出てこない。天使も女神も英雄もいない。
いるのは、村の会葬者、石を割る労働者、猟犬、酒場の女主人、そして故郷の岩と水である。
猟犬と、死んだ野兎
主題の選び方が、はっきり出ている一枚を見たい。

秋の林である。地面に野兎が一羽、横たわっている。もう死んでいる。
そこへ猟犬が二匹、鼻を近づけている。白と茶の斑の犬たちだ。
背景は暗い。木々は褐色と深緑に沈み、奥に一箇所だけ明るい空き地が見える。
この主題は、狩猟画という分野に属する。貴族の趣味を描く分野で、絵画の序列では低い。
その低い主題を、横1.5メートルの画面で描いている。
しかも美化していない。野兎の身体は硬直し、脚が不自然に伸びている。
狩りの誇らしさも、獲物の美しさも描かれていない。ただ、死んだ動物と、それを嗅ぐ犬がいる。
一方で、犬の描写は的確である。
前脚の踏ん張り、垂れた耳、鼻先の位置。猟犬が匂いを追うときの姿勢が、正確に捉えられている。
クールベ自身が狩りをする人だった。見慣れた動作なのだろう。
主題を美化しないことと、対象をよく知っていることは両立する。むしろ、よく知っているからこそ美化しないとも言える。
故郷の岩
風景でも、選び方は同じである。

描かれているのは、彼の故郷にある谷の一角である。
名所ではない。眺めがよいわけでもない。ただ、岩と木と水がある場所だ。
画面はほとんど暗い緑と褐色で、空はほとんど見えない。
奥行きも浅い。画面の奥は岩と葉で塞がれていて、視線が遠くへ抜けていかない。
風景画の常識では、これは避けるべき構図である。奥へ抜ける道筋を作るのが定石だからだ。
その定石については別のコラムで扱っている。手前を暗く、中景を明るく、遠景を霞ませる。
クールベはそれをやらない。目の前の岩を、目の前のまま描く。
その結果、画面は閉じる。
見る側は、奥へ入っていけない。岩の前で止まる。
風景画としては窮屈だが、別の効果が出る。そこにある物の重さが前に来る。
遠くの理想的な場所へ連れていく絵ではなく、目の前の石と水を見せる絵になっている。
同じ谷を、彼は何度も描いた。同じ水源も、何度も描いている。
名所ではない場所を繰り返し描くのは、風景画としては珍しい態度である。

同じ地方の水源を描いた一枚では、主題がさらに単純になる。
洞窟の口。そこから溢れる水。左の建物。
それだけである。
岩肌の質感に注目してほしい。絵具が厚く、筆ではなくパレットナイフで置かれている。
刃で絵具を引きずると、面が平らになり、縁に絵具の溜まりができる。石灰岩の割れ目が、そのまま絵具の物理的な形として現れる。
筆で描く場合、絵具は筆の毛の方向に流れる。ナイフの場合は、刃の縁で切れる。
境目が鋭くなり、面が平らになる。岩の質感には、これがよく合う。
しかも速い。広い面積を一気に埋められる。
ただし、細かい描写はできない。だからナイフを使った画面では、細部が自然に省かれる。
道具の選択が、画面の粗さまで決めている。
描くのではなく、作る。この画家の岩は、しばしばそう見える。
海の絵になると、単純になる
1860年代の半ばから、彼は海辺で多くの絵を描いた。

構図は極端に単純である。
上の三分の二が空。灰白色の雲が広がり、その下端が水平線の上でわずかに切れる。
中央に、青緑の海の帯。低く、静かで、波の白い線が二本だけ入る。
下に、砂浜。褐色と灰の混ざった面である。
人も舟も建物も無い。左下に「66 Gustave Courbet」の署名があるだけだ。

同じ時期の別の一枚では、手前に黒い岩が置かれる。
ここでも要素は少ない。岩、海、空。
波は低い。嵐ではない。
北斎の《神奈川沖浪裏》が波の頂点を捉えたのに対し、こちらは何も起きていない海である。別のコラムで扱っている。
比べると、選び方の違いがよく分かる。北斎は劇的な瞬間を作り、クールベは何でもない状態を選んだ。
そして、何でもない状態のほうが、実は描くのが難しい。見どころが無いからだ。
支えているのは、絵具の質感である。空の雲は厚く盛られ、海の面は薄く引かれ、砂は乾いた筆で擦られている。
主題ではなく、絵具の扱いで持たせている。
同じ場所で、条件を変えながら何枚も描く。この方法は、次の世代の画家たちが徹底することになる。
モネの連作については別のコラムで扱っている。クールベの海の絵は、その手前にある。