暮らしと名画

足は、地面との接点である——ドガ・歌麿・ムリーリョほか九点

自分の足の裏を見る踊り子、炬燵から出た素足、月の上に載る聖母の足。足の九点を数えると、人の足が写るのは五点で、三点は木の根元や崖の下という場所の名だった。立っているものには、すべて足があることになっている。

右足の裏を見る踊り子
エドガー・ドガ《右足の裏を見る踊り子》クリーヴランド美術館蔵

足の裏を、見ている

青銅の像である。

高さは46.4センチ。

女が一人、立っている。

左の脚だけで、体を支える。

右の脚は、前へ持ち上げられる。

膝が曲がり、足首が引き寄せられる。

右の足の裏が、こちらへ向く。

指のつけ根の膨らみが見える。

土踏まずのくぼみも見える。

かかとは、丸い。

上体は、前へ傾く。

顔は、その足を見下ろす。

両手は、右の足首を握る。

腕が、脚と一本の輪を作る。

背は、丸くなる。

髪は、うなじで束ねられる。

衣は、腰に巻かれるだけである。

表面は、荒い。

指で押した跡が、いくつも残る。

台座は、四角い。

右足の裏を見る踊り子
エドガー・ドガ《右足の裏を見る踊り子》一八九六年から九七年。館の記録では、青銅。全体で高さ46.4センチ。番号は1947.2028。クリーヴランド美術館蔵。エドガー・ドガ《右足の裏を見る踊り子》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この一群の由来を書いている。

作者は生前、蝋で多くの彫刻を作った。

死後まもなく、それが青銅に鋳られた。

この作は、その後期のものである。

踊り子への関心と、動く体の感覚が続いている。

そして館は、表面に触れる。

作者の指の跡が、青銅の面に見える。

つまり、蝋の柔らかさが金属に写っている。

館はさらに、作者の観察の場所も書く。

巴里の歌劇場に通い、踊り子を見ていた。

舞台の上でも、舞台裏でも見ていた。

この姿勢は、舞台のものではない。

稽古のあと、痛みを確かめる姿である。

足の裏は、自分では見えにくい。

見るためには、体を折らなければならない。

九点の最初に、これを置く理由である。

足は、体の中で最も見られない部分である。

顔は、鏡で見られる。

手は、そのまま見られる。

背中は、見えないが、他人からは見える。

足の裏だけが、誰からも見えにくい。

地面に接しているあいだは、隠れている。

踊り子については、踊る足は、地に着いているで扱った。

足だけを、並べて描く

赤チョークの素描である。

紙は25.3×35.1センチ。

横長である。

一枚の紙に、いくつもの形が並ぶ。

左に、若い女の頭と肩がある。

顔は、上を向く。

両腕が、高く上げられる。

手に、丸い枠を持つ。

太鼓である。

その右に、腕が一本だけある。

さらに右に、手が二つある。

紙の下のほうに、足がある。

裸足である。

一つは、横から見た形。

もう一つは、やや斜めからの形。

指が、一本ずつ描かれる。

親指が太く、他は細い。

甲の骨が、線で示される。

足首から上は、途中で切れる。

タンバリンを打つ若い女と腕・手・足の習作
マルカントニオ・フランチェスキーニ《タンバリンを打つ若い女と腕・手・足の習作》1711年ごろ。館の記録では、赤チョーク。紙の寸法は25.3×35.1センチ。番号は2003.7。クリーヴランド美術館蔵。マルカントニオ・フランチェスキーニ《タンバリンを打つ若い女と腕・手・足の習作》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この紙の行き先を書いている。

大きな画面の準備として描かれた。

主題は、海を渡ったあとの感謝の場面である。

女たちの合唱を、一人の女が導く。

その原寸の下絵が、一七一一年から翌年に描かれた。

いまも、羅馬のある建物を飾っている。

館は、どの習作がどの人物のものかも書き分ける。

足と、頭と肩の部分は、太鼓を打つ主人公のもの。

右の腕と、二つの手は、別の人物のためのものである。

つまりこの紙は、部品の一覧である。

前の回で見た手の習作と、同じ作り方である。

ただしあちらは、工房で共有する手本だった。

こちらは、一つの画面のための部品である。

足だけを取り出して並べると、形がよくわかる。

そして、体のどこよりも指の差が大きい。

親指は太く、短く、他から離れる。

小指は、ほとんど爪だけである。

手の指は、長さが揃っている。

足の指は、揃っていない。

だから、習作では一本ずつ描かれる。

揃っていないものは、覚えられないからである。

火のそばで、素足が出る

木版の多色摺である。

紙は26.1×39.1センチ。

横長である。

画面の中央に、低い台がある。

布が、その上に掛けられる。

炬燵である。

右に、女が座る。

本を手にしている。

顔は、左へ向く。

その前に、男の子がいる。

抱き上げられようとしている。

床に、小さな人形が二つ落ちる。

相撲取りの人形である。

左に、もう一人の女がいる。

頭を、布の下に入れている。

寒いからである。

その足だけが、布の外に出る。

裸足である。

指が、そろって見える。

手前に、少女がいる。

床の穴の炭を、かき回している。

四季の風流
喜多川歌麿《四季の風流》1782年ごろ。館の記録では、木版・墨と色・紙。紙の寸法は26.1×39.1センチ。番号は1930.196。クリーヴランド美術館蔵。喜多川歌麿《四季の風流》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この一枚の位置づけを書く。

題は四季の連作を思わせる。

しかし、この冬の一枚しか知られていない。

そして、場面を細かく読む。

男の子が、玩具の相撲取りを落とした。

炬燵で本を読んでいた女に、抱き上げられようとしている。

連れの女は、暖を取るために頭を布に入れた。

その素足が、炭を扱う少女によって露わになっている。

つまり、足が出ているのは偶然の結果である。

顔を隠したから、足が出た。

隠す場所を選べば、隠れない場所ができる。

前の二点では、足は見るための対象だった。

ここでは、足は隠し損ねた部分である。

見せるつもりのない足が、画面の中心近くにある。

この一枚は、冬の場面である。

炬燵の布が、体をほとんど覆っている。

覆われた中から出ているのは、足だけである。

覆いが多いほど、出た部分は目立つ。

足を病んで、籠で運ばれる

画帖の一葉である。

全体で30.2×26.7センチ。

絹に描かれている。

画面に、男が一人いる。

立っている。

顔は、やや右を向く。

髭が、顎の下に伸びる。

頭に、布を巻く。

衣は、ゆったりと垂れる。

袖は、長く、地に近い。

手は、袖の中である。

腰のあたりに、帯が結ばれる。

足元には、履物が見える。

つま先が、衣の下から出る。

まわりに、何も描かれていない。

地は、絹の色のままである。

右上に、字が書かれる。

陶淵明像(古人に倣う画より)
陳洪綬《陶淵明像(古人に倣う画より)》1598年から1652年のあいだ。館の記録では、画帖の一葉・絹本着色。全体で30.2×26.7センチ。番号は1979.27.1.5。クリーヴランド美術館蔵。陳洪綬《陶淵明像(古人に倣う画より)》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、描かれた人物を書いている。

四世紀から五世紀の詩人である。

政治の乱れた時代に、官職への道を断った。

故郷の屋敷へ戻り、詩を作り、庭と酒を楽しんだ。

そして、こう書かれている。

足を病んでいたので、籠で運ばれるか、杖で歩いた。

菊を育てたので、その花と結びつけられる。

館は、描いた側の事情にも触れる。

この画家は、王朝の交替期の混乱を生きた。

千年前の、似た時代の詩人を描いた。

だから、わざと古風な様式を選んでいる。

ここで足は、動けないことの理由である。

画面では、履物の先しか見えない。

しかし記録は、その足が悪かったと書く。

見えない部分の状態が、生き方を決めている。

この画帖は、友人のために作られた。

二十図の二冊組だという。

一図ごとに、古人が一人ずつ描かれる。

背景を描かないのは、その様式のためである。

人物だけを、絹の地の上に置く。

杖については、杖は、地面に触れるで扱った。

月を、足の下に置く

大きな油彩である。

額を外すと220.5×127.5センチ。

人の背丈を超える。

縦に長い。

画面の中央に、女が立つ。

白い衣と、青い外套を着る。

両手は、胸の前で合わされる。

顔は、やや上を向く。

髪は、肩に落ちる。

足元に、細い弧がある。

三日月である。

月は、下向きに反る。

その上に、素足が載る。

足の指が見える。

まわりに、子どもの姿が多くいる。

翼がある。

雲が、下半分を埋める。

上は、明るい金色である。

無原罪の御宿り
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《無原罪の御宿り》1680年ごろ。館の記録では、油彩・カンヴァス。額を外して220.5×127.5センチ。番号は1959.189。クリーヴランド美術館蔵。バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《無原罪の御宿り》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この主題の難しさを書く。

聖母が罪なく宿ったという教えである。

一六〇〇年代の西班牙で、篤く信じられた。

ただし、正式な教義になったのは一八五四年である。

抽象的な主題なので、画家は図像を作らなければならなかった。

たとえば、この三日月である。

新約聖書の、ある幻の記述から来ている。

太陽を着た女が、月を足の下にしている、という一節である。

つまり、この足は教義を示す装置である。

足が月の上にあるかどうかで、主題が決まる。

前の四点では、足は体の一部だった。

ここでは、足は位置を示す記号である。

何の上に載っているかだけが、問われている。

だから、この足は裸足でなければならない。

履物があれば、月に触れていないことになる。

触れていることが、教義の証になる。

大きな画面で、足はごく小さい。

小さいが、そこだけは省けない。

木の根元に、座る

小さな銅版画である。

紙は12×8.5センチ。

縦長である。

画面の中央に、太い木がある。

幹は、画面の上へ抜ける。

根が、地面に張り出す。

その根の上に、女が座る。

衣は、幾重にも重なる。

膝の上に、幼子がいる。

幼子は、上を向く。

女の顔は、下を向く。

背景に、建物が見える。

塔と、屋根が並ぶ。

その手前に、水がある。

遠くに、丘が連なる。

画面の下に、小さな板が描かれる。

そこに、年と文字が入る。

線は、細かく、密である。

濃淡は、線の間隔で作られる。

木の根元に座る聖母
ヤン・ホッサールト《木の根元に座る聖母》1522年。館の記録では、銅版。紙の寸法は12×8.5センチ。番号は1953.138。クリーヴランド美術館蔵。ヤン・ホッサールト《木の根元に座る聖母》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この一枚の位置を書いている。

作者は、南の低地の宮廷画家である。

早くから、ある独逸の画家の版画を知っていた。

その図柄を、自分の絵に使ったこともある。

しかし自分では、長く版を作らなかった。

その画家が一五二〇年から翌年に低地を旅したあと、作りはじめた。

会ったかどうかは、はっきりしない。

ただ、その画家はこの町を訪れ、版画を交換や贈答に持ってきた。

この一枚が、作者の最初の銅版である。

聖母子の版画を参照しているが、どれの写しでもない。

年と署名を入れた小さな板も、その画家から取っている。

刷りの出来にむらがあるのは、最初の試みだからだという。

題にある根元は、英語では足という語である。

木の足、つまり根のあたりを指す。

木には足がない。

しかし、立っているものには足があることになる。

根は、地面に入る部分である。

入る手前のところを、足と呼ぶ。

この版画では、その根の上に人が座っている。

木の足の上に、人の体が載っている。

崖の下に、立つ

錦絵である。

32.7×14.6センチ。

縦長である。

画面の右上から、黒い塊が下りる。

崖である。

その面に、白い筋が入る。

雪である。

画面の左に、男が一人立つ。

役者の姿である。

顔は、やや上を向く。

眉が太く、口は開く。

髷は小さい。

衣は、黒地に大きな文様。

肩が、四角く張る。

裾は、風になびく。

足元は、雪に埋もれる。

下駄の歯が、わずかに見える。

空から、白い点が降る。

吹雪である。

吹雪の崖下に立つ侠客に扮する役者
勝川春英《吹雪の崖下に立つ侠客に扮する役者》1793年ごろ。館の記録では、木版・墨と色・紙。32.7×14.6センチ。番号はJP915。メトロポリタン美術館蔵。勝川春英《吹雪の崖下に立つ侠客に扮する役者》メトロポリタン美術館蔵

館の札は「男性たち」と「役者」の二つである。

足の札はない。

しかし英語の題には、崖の足という語が入る。

崖の下を、そう言う。

前の一点の、木の根元と同じ言い方である。

立っているものの、いちばん下が足である。

木にも、崖にも、山にも使う。

日本語では、それぞれ別の語になる。

根元、崖下、山裾。

英語は、すべてを足で言う。

だから機械で足を探すと、風景が大量に出てくる。

人の足を探しているのに、崖が返ってくる。

前の回の水指と、同じ仕組みである。

ただし今回は、比喩の筋道がはっきりしている。

地面に接する部分を、足と呼ぶ。

接していれば、材質は問わない。

石でも、木でも、土でもよい。

人の足と違うのは、動かないことである。

動かないものの足は、支えるだけである。

皿にも、足がある

赤絵式の皿である。

直径は38.3センチ。

高さは7.9センチしかない。

平たく、大きい。

中央に、浅いくぼみがある。

まわりの面に、海のものが描かれる。

蛸が、二匹いる。

脚が、渦を巻く。

魚が、何匹も泳ぐ。

腹が白く、背が黒い。

貝も、いくつか描かれる。

地は、黒い。

図は、赤い地の色で残される。

縁には、波の文様が回る。

皿の下に、短い足がある。

その足の直径は16センチ。

赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝
アステアス/ピュトンの工房《赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝》紀元前340年から330年のあいだ。館の記録では、陶。直径38.3センチ、高台の直径16センチ。番号は1985.50。クリーヴランド美術館蔵。アステアス/ピュトンの工房《赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この種の皿を説明する。

もとは雅典で作られたが、南伊太利亜と西西里で広まった。

紀元前四世紀のことである。

どれも、短い足と、中央の小さなくぼみを持つ。

この工房のものは、最も大きく、最も飾りが多い。

館はさらに、描かれた魚にも触れる。

考古学者が、種を同定してきた。

その多くは、いまも地中海にいて、食べられている。

ここに挙がるのは、蛸、鯔、鯛、そして貝である。

足という語は、器物の底の高い部分を指す。

日本語では、高台と言う。

高い台である。

つまり、日本語では足と呼ばない。

足と呼ぶか、台と呼ぶか。

どちらも、立たせる部分であることは同じである。

足が、人の名になる

油彩である。

73.7×60.9センチ。

男の、胸から上がある。

顔は、正面をやや外れる。

髪は、頭の上で束ねられる。

束に、羽根が二本立つ。

顔に、赤と黒の線が引かれる。

線は、頬から顎へ下りる。

首に、飾りがいくつも下がる。

肩に、毛皮が掛かる。

胸は、露わである。

背景は、薄い青である。

何も描かれていない。

画面には、足がない。

胸から上しか描かれていないからである。

ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)
ジョージ・カトリン《ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)》1836年。館の記録では、油彩・カンヴァス。73.7×60.9センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ジョージ・カトリン《ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)》スミソニアン協会蔵

この一枚を足の九点に入れたのは、題のためである。

人の名に、足の語が入っている。

足で地を試す者、という意味だと館は記す。

前の二回でも、同じ画家の一枚を見た。

肩の回では、傷ついた熊の肩という名だった。

膝の回では、膝を洗う女という名だった。

つまり、この画家の残した名の一群には、体の部分が多い。

音を写した名と、意味の訳が並ぶ形式である。

だから体の部分を探すと、毎回この一群が出てくる。

三回続けて出てきたのは、偶然ではない。

在庫のかたよりが、そのまま検索の結果になっている。

そのことを、三回目で書いておく。

数えてみると

九点を数え直す。

人の足が画面に写っているのは、五点である。

踊り子、習作、炬燵の女、聖母、そして陶淵明の履物の先。

厳しく数えれば、四点になる。

履物の先だけでは、足とは言いにくい。

足の語が場所を指しているのが、三点。

木の根元、崖の下、皿の高台である。

名の中にあるのが、一点。

写っている足を、さらに見る。

裸足が、三点。

そのうち二点は、隠すつもりのない場所ではない。

炬燵の女は、頭を隠したから足が出た。

聖母の足は、月の上に載るために出ている。

見せるために描かれた足は、踊り子と習作の二点だけである。

どちらも、動きを調べるための絵である。

足が主題になるのは、動きを扱うときだけらしい。

止まっている人の足は、衣に隠れる。

裾が長ければ、足はまったく見えない。

九点のうち、裾の長い衣が四点あった。

そのすべてで、足は隠れているか、先だけが出ている。

衣の長さが、足の見える量を決めている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、足が地面との接点だということである。

だから、立っているものには足があることになる。

木にも、崖にも、皿にも。

いちばん下の、接している部分が足である。

人の足が特別なのは、そこが見えないことである。

自分の足の裏は、体を折らないと見えない。

見えないから、調べるための絵が要る。

踊り子の像は、その調べの姿そのものだった。

言えないことも、いくつかある。

まず、足の語で探すと、風景が大量に出てくる。

木の根元、崖の下、山の裾。

英語の記録では、すべて足である。

だから、この九点のうち三点は風景の一部にすぎない。

それを並べるかどうかは、こちらの判断である。

次に、履物のある足は、足として数えにくい。

今回も、履物の先だけの一点があった。

日本の絵では、素足が出るほうがめずらしい。

だから、東洋の作品では足の記録が少なくなる。

最後に、同じ画家の名の一群が、三回続けて出てきた。

体の部分を主題にすると、必ずそこへ行き着く。

行き着くこと自体が、在庫の形を示している。

数えているのは、絵のほうだけではない。

記録の作られ方も、いっしょに数えている。

九点のうち、館の説明が長いのは五点だった。

いずれも、クリーヴランドの記録である。

札しかない記録では、足の語は題にしか出てこない。

だから題に足が入る作品ばかりが集まる。

崖下や根元が三点も入ったのは、そのためである。

説明の文が長い館ほど、比喩の足まで拾える。

拾えるが、そのぶん偏る。

そして、足の裏を見るには、体を折るしかない。

九点のうち、それをしているのは一点だけだった。

その一点だけが、彫刻である。

絵は、平らな面に描く。

足の裏は、平らな面に向きにくい。

RELATEDあわせて読みたい

暮らしと名画の記事一覧