髪は、頭の輪郭を作り替える——レイバーン・デューラー・ロートレックほか九点
顔そのものを描き変えなくても、髪の形で人の見え方は動く。九点で、髪の扱い方を数えたい。白髪、髪帯、乱れ髪、髪を梳く手、そして髪を切る道具まで。線で描く髪と、面で塗る髪の違いも比べる。頭の上に何を載せるかも、五点で数えられた。光、笠、鳥、そして兜である。

白い髪が、光っている
暗い背景の前に、男が半身で描かれている。
黒い上着を着る。
首に白い布を巻き、その端が胸元でふくらむ。
顔はやや右を向き、目はこちらへ来る。
そして、頭の上と左右で、髪が白く広がっている。
一本ずつ描かれているのではない。
細い筆を素早く動かした跡が、束になって見える。
暗い背景の上に、その白がはっきり浮かぶ。
顔の輪郭より、髪の輪郭のほうが目立つ。

館の記録は、額を含めた寸法も書いている。
96.6×84.5×8.3センチである。
絵そのものより、縦横それぞれ二十センチほど大きい。
出所の行には、三つの名が並ぶ。
二人の個人と、もう一人の遺産である。
同じ家系の名前が続いている。
一枚の絵が、家族の何人かを経て館へ入ったことになる。
館の記録は、この人が誰かを書いていない。
題は「白髪の男性の肖像」である。
名前ではなく、髪の色で呼ばれている。
前の三回で、顔の向き、視線、切る位置を見てきた。
今回は、顔の外側にあるものを見る。
髪と、頭のまわりである。
九点を選ぶとき、記録に髪の語があるものを拾った。
すると、思ったより広い範囲が集まった。
髪を梳く絵、髪を切る絵、髪を洗うための道具まで出てきた。
順に並べたい。
髪は、頭の形を決めている
まず、確かめておきたいことがある。
人の頭は、髪がなければ卵の形に近い。
その上に髪が乗ると、輪郭が変わる。
高く結えば縦に伸び、広げれば横に張り出す。
顔そのものを描き変えなくても、印象は動く。
九点を見ると、そのことがよく分かる。

版の右下に、年と印が刻まれている。
1508という数字と、作者の組み文字である。
版画には、こうして年と作者が画面に入ることが多い。
紙は流通するものだから、出どころを示す必要がある。
第十六回で、画面の中に書かれた文字を扱った。
版画の年記と印は、その代表的な例である。
女性が、三日月の上に立っている。
胸に幼い子を抱く。
長い髪が、背中から膝の裏まで垂れる。
髪の束が、細い線の集まりとして刻まれている。
そして頭には、細い帯が巻かれている。
その帯が、髪を額から後ろへ押さえている。
頭のまわりには、放射状の線が広がる。
光を表す線である。
題は、この帯を名前に取り込んでいる。
館の記録によれば、同じ主題の版画が四点あるという。
そのうちの一点が、この髪帯のあるものだ、という区別である。
つまり、髪の飾りが作品を識別する目印になっている。
館の記録には、寸法が入っていない。
技法と、受け入れの経緯だけが書かれる。
第十三回で、記録の欄の欠落を扱った。
比べたい欄が空いていると、そこだけ話が止まる。
題に髪があっても、画面にあるとはかぎらない

細判というのは、紙の大きさの呼び名である。
縦に細長い判型で、役者を一人か二人立たせるのに使う。
九点のなかでは、いちばん縦横の比が極端である。
縦が横の二倍を超える。
縦長の細い紙である。
縦29.9センチ、横14.7センチしかない。
そこに、二人の人物が立つ。
左の人物は、細かい模様の衣を着て、片手を上げる。
右の人物は、黒い衣に大きな家紋をつけ、平たい笠を持つ。
上には、梅の枝が斜めに伸びる。
花が点々と咲いている。
画面の周囲に、文字が並ぶ。
演目の名、役の名、そして版元の印である。
題には「みだれ髪」という語がある。
だが、画面に乱れた髪は見あたらない。
二人とも、髪はきちんと結われている。
これは、題が演目の名だからである。
芝居の題であって、絵の中身の説明ではない。
語で絞ると、こういう外れが必ず混じる。
ただし、外れではあっても、無意味ではない。
髪という語が、芝居の題に使われるほど強い言葉だ、ということになる。
乱れた髪は、乱れた心の印として使われてきた。
その約束が、題の中に残っている。
館の記録では、この一点は漆絵と呼ばれる種類である。
墨に膠や漆のような艶を出す材料を混ぜ、黒を光らせる。
そして、刷ったあとに筆で色を差す。
多色刷りが広まる前の作り方である。
髪を結う場面
髪そのものを主題にした絵もある。

館の記録によれば、下に黒鉛の描線が残っているという。
つまり、鉛筆で当たりを取り、その上をペンでなぞった。
印刷にかけるための原画である。
だから、線は太さがはっきりしている。
細い線と太い線の差が、印刷しても消えない。
灰色を使わず、黒と白だけで濃淡を作るのも同じ理由である。
黒と白だけで描かれた室内である。
中央に、鏡台の前に座る女性がいる。
その髪を、後ろから侍女が整えている。
まわりに、何人かの人物が立つ。
左には、大きく髪を盛り上げた人物がいる。
奥には、窓と、庭のような景色が見える。
床、壁、衣のすべてが、点と線の模様で埋まる。
余白がほとんどない。
館の記録によれば、これは十八世紀の詩の挿絵である。
その詩は、髪の一房を切り取られた事件を大げさに歌ったものだという。
そして館は、この絵が作り物めいた美しさを重ねていると書く。
これは館の見解である。
こちらで確かめられるのは、画面が装飾で埋まっている、という事実だ。
髪を結うという行為が、儀式のように描かれている。
一人の髪に、何人もが関わる。
そして、そのために鏡と道具が並ぶ。
髪を梳く手

館の記録では、これは連作の一枚である。
連作の題は「彼女たち」という。
同じ題の別の一枚が、この回の在庫にも残っていた。
一枚ずつ売られることもあれば、まとめて残ることもある。
こちらは、まったく違う描き方である。
褐色の紙に、輪郭線だけが引かれている。
女性が前かがみになり、両手を頭の後ろへ回す。
髪を持ち上げ、まとめようとしているところである。
背中と肩は、線だけで示される。
塗られた面は、髪と、下に敷かれた布くらいだ。
顔は、ほとんど見えない。
うつむいているからである。
つまり、この絵の主役は顔ではない。
髪と、それを扱う手である。
館の記録には、寸法が入っていない。
これも欄が空いている一点である。
先ほどのビアズリーと比べたい。
あちらは、髪を結わせる人を、飾りの中心に置いた。
こちらは、髪を自分で扱う人を、線だけで写した。
同じ行為でも、扱い方でまったく別の絵になる。
髪を切るための道具
九点のうち一点は、人の絵ではない。

高さ8.7センチ、径30.6センチ。
径が高さの三倍以上ある。
つまり、かなり浅い。
深い器では、首を当てたときに顎がつかえる。
浅くて広い形は、用途から決まっている。
円い浅い鉢である。
白い地に、青一色で絵が描かれている。
中央には、樹と、その下に立つ人物たちがいる。
縁のまわりにも、細かい文様が巡る。
そして、縁の一か所が、半円に切り取られている。
この切り欠きに、首を当てる。
髪を切るとき、あるいは髭を剃るとき、下に構える器である。
落ちた髪や湯を受けるために使う。
つまり、これは道具である。
館の記録は、図案を作った人の名を作者の欄に入れている。
その人はヨーロッパの図案家で、器は日本で焼かれた。
図案が海を渡り、焼き物になって戻る。
第十五回で、下絵と実物が別の人の手になる例を扱った。
ここでも、描いた人と作った人が違う。
そして、器そのものは髪を写していない。
髪を扱う場面で使われる、という関係で入っている。
記録の語で拾うと、こういう品が混じる。
髪を切るという行為

レキュトスは、油を入れる器である。
香りをつけた油を注ぎ、少しずつ出して使う。
口が細いのは、そのためである。
そして、この形の器は墓に供えられることが多かった。
館の記録は、この一点の出土地には触れていない。
細長い壺である。
高さ43.5センチ。
上に細い首があり、口が広がる。
黒く塗られた地に、赤い人物が一人描かれている。
兜をかぶり、槍を持つ。
大きな丸い盾が、体の脇に見える。
そして、片手を頭のあたりへ上げている。
髪に触れている姿である。
館の記録によれば、髪を切っているか、梳いているかのどちらかだという。
そして館は、出征の前に髪を切って残す習慣に触れている。
その習慣に結びつけて読む可能性を、館は示している。
これは館の見立てである。
こちらで確かめられるのは、手が頭に上がっている、ということまでだ。
赤像式というのは、作り方の名前である。
器の表面を黒く塗り、人物の部分を塗り残す。
焼くと、塗った部分が黒くなり、残した部分が土の赤で出る。
細かい線は、黒の中に筆で描き足す。
第十九回で、白は刷らずに残すと書いた。
ここでは、赤は塗らずに残されている。
原理としては、よく似ている。
髪の手入れには、道具と人が要る
九点のうち三点で、髪の手入れが行われている。
結わせる場面、梳く場面、そして切る場面である。
そこに、共通することがある。
どれも、腕を上げるという姿勢を取ることだ。
髪は頭にあるから、手を高く上げなければ届かない。
ビアズリーの絵では、侍女が背後から腕を伸ばす。
ロートレックの一点では、本人が両腕を頭の後ろへ回す。
ギリシアの戦士も、片腕を頭まで上げている。
この姿勢は、体の線を大きく変える。
腕を上げると、肩が上がり、脇が開く。
背中が伸び、腰の位置が変わる。
つまり、髪を扱う場面は、体の形を描く機会でもある。
ロートレックの一点は、そこを狙っているように見える。
顔はほとんど見えない。
見えるのは、腕を上げた背中の線である。
髪を主題にしながら、描いているのは姿勢である。
そしてもう一つ、道具が要る。
櫛、鏡、鋏、そして受ける器。
九点のうち、道具がはっきり写るのは二点だった。
ビアズリーの鏡台と、理髪の鉢である。
鋏や櫛は、どの画面にも見あたらない。
手だけが写り、道具は省かれている。
省いても、行為は伝わる。
腕が頭に上がっていれば、髪に触れていると分かるからだ。
髪の色が、題になる

館の記録には、制作年がない。
年不明と書かれている。
九点のうち、年が分からないのはこの一点だけである。
赤いシャツを着た男の顔である。
背景は、黄土色と暗い茶色に分かれる。
髪は明るい金褐色で、額の上で分けられている。
長い口髭が、左右に伸びる。
目はこちらを向く。
顔の肌は、白と赤とで塗り分けられている。
筆の跡が残り、面が平らでない。
この一点も、題が髪の色になっている。
冒頭の一点は「白髪の男性」だった。
こちらは「金髪の男」である。
どちらも、名前が分からない。
名前が分からないとき、記録は目立つ特徴で呼ぶ。
そして、九点のうち二点で、その特徴が髪だった。
顔立ちでも、服装でも、職業でもない。
髪の色が、その人を指す言葉として選ばれている。
髪の上に、何かが降りてくる

九点でいちばん長い題である。
画面の下に、女性の頭が一つある。
顔は正面を向き、目は開いている。
髪は、頭の上でまとめられている。
その上に、黒い塊が広がる。
翼を開いた大きな鳥である。
羽の一枚ずつは描かれていない。
黒い線を重ねて作られた面である。
鳥と髪の境目が、はっきりしない。
黒がつながっているからだ。
館の記録によれば、これは小説から取られた図の一つである。
砂漠の隠者が受ける試練を書いた本だという。
そして館は、作者が木炭の黒さを版画で出そうとしたと書く。
これは館の見解である。
こちらで言えるのは、黒が面として置かれている、ということだ。
題では、鳥が髪の頂に身を投げるとある。
画面でも、鳥は髪の真上にいる。
髪が、何かを受け止める場所として使われている。
髪は、何本描かれているか
九点の髪の描き方を、近くで見比べた。
一本ずつ線を引いているものが三点ある。
デューラーの版画、ギリシアの壺、ビアズリーの素描である。
いずれも、線で描く技法を使っている。
彫るか、筆で引くか、ペンで引くか。
線しか使えない技法では、髪も線になる。
束として塗っているものが四点。
レイバーン、バーニー、ルドン、ロートレックである。
こちらは、面で作れる技法だ。
油彩、リトグラフ、多色刷り。
筆や版で、広い面を一度に置ける。
そして、面で作ると髪はやわらかく見える。
線で作ると、硬く、整って見える。
レイバーンの白髪は、筆の跡がそのまま髪の乱れになっている。
デューラーの長い髪は、一本ずつ整えられている。
同じ「髪」でも、技法によって性質が変わる。
残りの二点は、髪が主役ではない。
役者絵では、髪は黒い面として塗られる。
理髪の鉢には、そもそも髪がない。
頭の上に、何が載っているか
髪の上に何かを載せる例も数えた。
九点のうち五点で、頭に何かがある。
デューラーの聖母には、細い帯がある。
そして、その上に放射状の光がある。
役者絵の二人のうち、一人は平たい笠を手に持つ。
かぶってはいない。
ビアズリーの絵では、髪そのものが高く盛られる。
その上に、飾りが刺してある。
ルドンの一点では、髪の上に鳥がいる。
そしてギリシアの戦士は、兜をかぶる。
つまり、頭の上は何かを置く場所である。
光でも、笠でも、鳥でも、兜でもよい。
そこに置かれたものが、その人の立場を示す。
第十九回で、かぶった帽子と手に持った帽子を分けた。
帽子の話で書いたとおり、
かぶるか持つかで、意味が変わる。
髪の場合も同じである。
髪に載せるものは、髪の形を変えてしまう。
だから、載せるかどうかが選択になる。
九点のうち、頭に何もない四点を見ると、髪の輪郭がそのまま頭の輪郭になっていた。
九点を並べて、数えられたこと
題に髪の語が入るのは、九点のうち七点だった。
残る二点は、理髪の鉢と、髪帯の聖母である。
聖母のほうは、髪の飾りが題に入る。
鉢のほうは、用途の名に髪が入る。
髪が描かれている点を数えると、八点である。
鉢の一点だけが、髪を写していない。
髪に手が触れている絵は三点。
梳く、切る、結わせる。
髪の色が題になっているのは二点。
白髪と、金髪である。
材料も数えた。
紙が五点、布が二点、陶器が二点。
紙の五点は、版画が四点、素描が一点である。
髪は、線で描くのに向いている。
だから版画に多いのだろう、と考えたくなる。
ただし、九点だけでそれは言えない。
そして、髪は時間を示す材料でもある。
白くなれば、年月が経ったと分かる。
長く伸びていれば、切っていないと分かる。
乱れていれば、整える暇がなかったと分かる。
顔だけでは、そこまで読めない。
顔の皺も年月を示すが、遠くからでは見えない。
髪の色は、遠くからでも見える。
冒頭の一点で、白い髪が暗い背景に浮かんでいた。
あの絵の情報の大半は、あの白が運んでいる。
館の記録が、その人を「白髪の男性」と呼ぶのも当然である。
見て最初に分かるのが、そこだからだ。
記録は、見た人が最初に気づいたことを書き留める。
名前が残っていない場合、それが唯一の手がかりになる。
記録に書かれていないこと
館の記録は、髪型を書かない。
結い方も、長さも、色も、欄には入らない。
入るのは、題に紛れ込んだ場合だけである。
九点のうち二点は、髪の色が題にあった。
一点は、髪の飾りが題にあった。
一点は、演目の名に髪があった。
いずれも、記録が髪を記述したのではない。
題が、たまたま髪を含んでいた。
そして、その題を付けたのが誰かは、たいてい分からない。
作った人か、売った人か、館か。
第十三回で、題の欄の書かれ方を扱った。
髪は、記録の外にある。
数えるには、画像を見るしかない。
次の回は、老いた顔を見る。
そこでも、髪は大きな手がかりになる。


