画家を知る

十か月で消えた絵師——東洲斎写楽

全身を描く型へ

写楽の絵は、途中で作りが変わる。

市川男女蔵の富田兵太郎と三代目大谷鬼次の浮世渡平
東洲斎写楽《市川男女蔵の富田兵太郎と三代目大谷鬼次の浮世渡平》1794〜95年。木版多色摺・白雲母地。縦37.1センチ、横24.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。東洲斎写楽《市川男女蔵の富田兵太郎と三代目大谷鬼次の浮世渡平》メトロポリタン美術館蔵

上半身ではなく、全身が入っている。

二人が立ち、片方が刀に手をかけている。

足元まで描かれ、床の線も入る。

顔は、そのぶん小さい。

大首絵と比べると、迫力は落ちる。

代わりに、場面が分かるようになった。

誰と誰が、どういう体勢で向き合っているか。

芝居の筋を追う人には、こちらのほうが親切である。

写楽の作品群は、この方向へ移っていったとされる。

大首絵は最初のひと群で、その後は全身像や小さい判が増える。

理由は記録されていない。

売れ行きを見て版元が方針を変えた、という見方が一般的である。

ただし、確かめる資料は乏しい。

代表作の一枚

ここで、写楽の代表作に数えられる図を出したい。

市川蝦蔵(五代目市川団十郎)の竹村定之進
東洲斎写楽《市川蝦蔵(五代目市川団十郎)の竹村定之進》1794年五月。木版多色摺・雲母地。縦36.8センチ、横24.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。東洲斎写楽《市川蝦蔵(五代目市川団十郎)の竹村定之進》メトロポリタン美術館蔵

赤い衣の男が、胸の前で両手を合わせている。

顔は大きく、頬の肉が下がっている。

眉の間に皺が寄り、口はへの字に曲がる。

老いた男の顔である。

役柄は、娘のために切腹する立場の人物とされる。

その重さが、顔だけで示されている。

手は合わせているが、祈りには見えない。

指に力が入り、関節が浮いている。

顔と手の両方に、こらえている感じがある。

背景はやはり雲母地で、余計なものがない。

百年後に刷られた、同じ図

そして、同じ図がもう一枚ある。

市川蝦蔵の竹村定之進
東洲斎写楽の図による《市川蝦蔵の竹村定之進》。メトロポリタン美術館の記録では、この一枚は1880年代後半から1890年代前半の刷りとみられている。木版多色摺。縦37.5センチ、横25.7センチ。同館蔵。東洲斎写楽《市川蝦蔵の竹村定之進》メトロポリタン美術館蔵

構図はほぼ同じである。

顔の輪郭も、手の位置も重なる。

違うのは色である。

先の一枚は赤い衣、こちらは橙と青が入る。

背景の調子も違い、雲母の光は感じられない。

美術館の記録は、この一枚を十九世紀末の刷りとしている。

つまり、写楽の時代から百年ほど後に刷られたものである。

版木を彫り直したか、原図を写して新たに彫ったか。

そこまでは記録に書かれていない。

分かっているのは、そういう刷りが存在することである。

そして、館が刷りの時期を分けて記録していることである。

後の刷りを、どう扱うか

版画には、同じ図で複数の刷りが存在する。

初摺と後摺では、色も線も違ってくる。

版木は摺るたびに減る。

線が太くなり、細部が潰れる。

色も、その時々の顔料や指示で変わる。

だから版画では、どの刷りかが問題になる。

明治期には、江戸の版画を新たに彫って売る商いがあった。

海外の需要に応えたものである。

その一部は、いま美術館の収蔵品として残っている。

偽物と呼ぶには当たらない。

刷り物としての来歴が、記録されているからである。

当サイトとしては、館の記録どおり、刷りの時期を書き分ける方針を取る。

同じ図でも、いつ刷られた紙かで意味が変わる。

写楽とは誰か

写楽の正体については、古くから説がある。

阿波藩に仕えた能役者だった、という説がよく知られている。

十九世紀の記録に、その名を写楽と結びつけた記述がある。

一方で、別人を当てる説も繰り返し出ている。

同時代の絵師の変名とする見方もある。

いずれも決め手を欠く、というのが実情である。

当方としては、正体は未確定として扱う。

分かっているのは、作品と、出た時期と、版元だけである。

そして、それだけで十分に語れる。

誰が描いたかより、何が描かれたかのほうが、絵に近い。

十か月をどう見るか

写楽の仕事は短い。

短いから、変化が一目で追える。

雲母地の大首絵から始まり、二人立ちを試し、全身像へ移る。

一年に満たない間に、型が三度変わっている。

これは、絵師の気まぐれというより、商いの調整に見える。

版元が売り方を試し、絵師がそれに応じる。

役者絵は、そういう仕組みの中の商品だった。

同じ時期の役者絵については、
勝川派の二人
役者絵と美人画の両輪でも扱っている。

写楽だけが特別だったわけではない。

ただ、崩し方の幅が大きかった。

消えたあとに起きたこと

写楽の評価は、生前と死後で大きく違う。

江戸では、長く忘れられていた側に入る。

版本の絵師一覧に名がないわけではないが、扱いは小さい。

事情が変わるのは、十九世紀の終わりからである。

日本の版画が海外へ大量に出た時期に当たる。

欧州の収集家が写楽を高く買い、研究書も出た。

その評価が、日本へ戻ってくる。

いま代表作として並ぶ図の顔ぶれも、この過程で固まった。

美術館に写楽が厚く残っているのは、その流れの結果である。

今回の九点も、すべて米国の館の収蔵品である。

寄贈者の名や購入基金の名が、記録に残っている。

一枚の絵の来歴には、そういう百年が含まれている。

九点を、順に見る

最後に、見方をひとつ提案したい。

九点を、顔の向きだけで並べ替えてみてほしい。

正面に近いもの、斜め、真横。

写楽は、この三つを行き来している。

そして、向きが変わるたびに、崩す場所を変えている。

正面では目、斜めでは口、横では顎。

崩す場所が一か所に決まっている絵は、一枚もない。

顔を似せながら、釣り合いを崩す。

崩しても、誰か分かる。

この綱渡りが、十か月続いた。

最初の一枚に戻って、もう一度あの手を見てほしい。

大きすぎる手は、失敗ではない。

そう決めた手である。

見るたびに、手のほうから目が動きはじめる。

その順序まで、絵師が決めている。

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