画家を知る

十か月で消えた絵師——東洲斎写楽

記録に残る作画期間は、およそ十か月。雲母を撒いた背景に、大きすぎる手を描いた絵師がいた。似せながら崩す九点をたどり、版元の企画としての役者絵と、百年後に刷られた同じ図を見る。顔を似せながら、釣り合いを崩す。それでも誰か分かる綱渡りが、そこにあった。

三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛
東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》メトロポリタン美術館蔵

手の大きさが、おかしい

一枚の役者絵から始めたい。

三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛
東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》1794年。木版多色摺・雲母摺。縦38.1センチ、横25.1センチ。メトロポリタン美術館蔵。東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》メトロポリタン美術館蔵

灰色の背景に、男が一人いる。

上半身だけが、画面いっぱいに入っている。

眉は八の字に吊り上がり、口は固く結ばれている。

目は中央に寄り、白目が広く見えている。

そして、手である。

胸の前に、指を開いた両手が突き出されている。

この手が、顔に比べて大きい。

指は太く、関節が角張っている。

人体の釣り合いとしては、明らかに崩れている。

けれども、絵は破綻していない。

むしろ、手が先に目に入ることで、身構えが伝わる。

この人物は、いままさに何かをしようとしている。

そう見えるように、手だけが誇張されている。

肩から先の袖は、縞と黒で塗り分けられている。

その暗い色の中に、白い手が浮く。

色の配置も、手を見せるために組まれている。

記録に残る作画期間は、およそ十か月

この絵を描いた人について、確かなことは多くない。

東洲斎写楽という名で、作品が残っている。

メトロポリタン美術館の記録は、活動期を1794年から95年と記している。

年でいえば二年にまたがるが、実際には一年に満たない。

寛政六年の五月に最初の一群が出て、翌年の正月ごろまでとされる。

つまり、およそ十か月である。

その間に、百四十点前後の版画が世に出たと数えられている。

数え方によって前後するので、おおよその見当と考えてほしい。

十か月で百四十点は、多い。

一か月に十点以上を出し続けた勘定になる。

そして、そのあと消えた。

以後の作品が確認されていない、ということである。

始まりも終わりも、はっきりしすぎている。

この極端さが、写楽をめぐる話をややこしくしてきた。

二人を、一枚に詰める

写楽の絵には、二人を一枚に入れたものがある。

中島和田右衛門の棒手ふり長左衛門と中村此蔵の船宿かな川屋の権
東洲斎写楽《中島和田右衛門の棒手ふり長左衛門と中村此蔵の船宿かな川屋の権》1794年。木版多色摺・雲母摺。縦38.4センチ、横25.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。東洲斎写楽《中島和田右衛門の棒手ふり長左衛門と中村此蔵の船宿かな川屋の権》メトロポリタン美術館蔵

右に年かさの男、左に若い男が並ぶ。

右の男は口を開き、眉を寄せている。

左の男は目をつむり、口をとがらせている。

二人の顔が、前後に重なって配置されている。

奥の男の輪郭が、手前の男の頭の後ろから出てくる。

この重なりが、狭い画面に奥行きを作っている。

着物の柄も対比されている。

手前は格子、奥は無地に近い赤である。

顔の向きも、片方は正面寄り、片方は横向き寄りだ。

同じ絵の中で、二つの型が並べられている。

役者絵は、ふつう一人を一枚に描く。

二人を入れると、それだけ一人あたりは小さくなる。

それでも並べたのは、場面の関係を見せたかったからだろう。

芝居の一場を、人と人の間合いとして切り取っている。

顔を大きくすると、何が起きるか

写楽の名を高くしたのは、いわゆる大首絵である。

胸から上だけを大きく描く型を指す。

この型は写楽の発明ではない。

美人画では喜多川歌麿がすでに使っていた。

歌麿の近づき方については当サイトでも
顔だけを大きく描くで触れた。

顔を大きくすると、細部が見えるようになる。

目尻の皺、口元の力み、顎の張り。

役者絵にこれを持ち込むと、似顔の要求が上がる。

観客は、その役者の顔を知っているからである。

似ていなければ、すぐに分かってしまう。

写楽は、その要求に応じたうえで、さらに動かした。

眉を上げ、目を寄せ、口を曲げる。

似顔でありながら、舞台の一瞬でもある絵になった。

雲母を撒いた背景

もう一枚、雲母摺の例を見ておきたい。

二代目坂東三津五郎の石井源蔵
東洲斎写楽《二代目坂東三津五郎の石井源蔵》1794年ごろ。木版多色摺・雲母摺。縦38.1センチ、横25.2センチ。メトロポリタン美術館蔵。東洲斎写楽《二代目坂東三津五郎の石井源蔵》メトロポリタン美術館蔵

背景が一様の灰色で、地の紙が見えない。

これは雲母の粉を膠で紙に定着させた地である。

美術館の記録では、白雲母と書かれている。

刷り上がりは、光の向きによって鈍く光る。

版画にひと手間かけた、上等な仕様である。

その手間が、人物の輪郭を引き立てる。

背景に何もないので、顔と衣だけが残る。

芝居の背景も、道具も、床も描かれない。

役者だけが、灰色の中に浮いている。

この思い切りが、写楽の絵を見分けやすくしている。

なお、雲母は経年で剥がれることがある。

現存する版画の背景の見え方は、一枚ごとに違う。

大判という紙の大きさ

寸法にも触れておきたい。

九点の縦は、おおむね36センチから38センチである。

横は24センチから25センチほど。

これは大判と呼ばれる規格に当たる。

浮世絵版画の紙は、規格でおおよそ決まっていた。

大判、中判、細判といった呼び分けである。

大判は、そのうち大きいほうに入る。

紙が大きければ、紙代も彫りの手間も増える。

つまり、値段の高い商品になる。

写楽の最初の一群が大判で、しかも雲母地であることには意味がある。

安く数を売る商品ではなかった、ということである。

芝居小屋と、絵の売り時

役者絵は、芝居と一緒に動く商品である。

江戸の劇場は、年の興行の区切りが決まっていた。

顔見世があり、初春の狂言があり、夏の芝居がある。

新しい配役が決まると、絵の需要が生まれる。

版元は、その時期に合わせて絵を出す。

だから役者絵には、いつの興行かが刻まれている。

演目名が題に残っているのは、そのためである。

九点のうち複数が、同じ演目に結びついている。

つまり、ひとつの興行に何枚もぶら下がっている。

役者絵は、芝居の記念品でもあり、宣伝でもあった。

その両方であることが、この絵の性格を決めている。