作品を知る

題が用意する理由——デューラー・モディリアーニ・スーラほか九点の裸体

姿勢を数える

九点の姿勢を並べたい。

立っているものが四点である。

デューラーの四人、ルグロの素描、ピサロの一点、マウラーの一点。

膝をついているものが一点。

大理石の彫刻である。

横たわっているものが一点。

モディリアーニの一点である。

座っているものが一点。

スーラの習作だが、こちらは服を着ている。

姿勢が読めないものが二点。

ホイッスラーの海岸と、立体写真の一点である。

写真のほうは立っているように見えるが、腰から下が切れている。

立っている四点には、共通することがある。

いずれも、体重が片方の脚にかかっている。

もう一方の膝が、わずかに曲がる。

その結果、腰が傾き、肩が逆に傾く。

この姿勢には古い呼び名があり、彫刻の型として長く使われてきた。

まっすぐ両脚で立つと、体は硬く見える。

片脚に体重を移すと、動きが出る。

九点のうち、両脚に均等に体重を置いた例は一つもなかった。

これは偶然ではないと思う。

布は、必ずどこかにある

九点を見ていて、気づいたことがある。

衣を着ていない体の絵には、たいてい布が写る。

大理石の彫刻には、体の脇に布が垂れる。

ルグロの素描では、手に布を持つ。

ピサロの一点でも、白い布を持っている。

モディリアーニの一点では、青い布の上に横たわる。

立体写真では、背景に垂れ布があり、手にも布がある。

九点のうち六点に、布がある。

なぜ布が要るのか。

理由は、いくつも考えられる。

一つは、隠すためである。

体の一部を覆えば、扱いが変わる。

もう一つは、色と形のためだと思う。

布は皺を作る。

皺は、明暗の変化を生む。

第十九回で、動きは布で描かれると書いた。

布の話で見たとおり、体そのものはあまり動かない。

布があれば、そこに動きを置ける。

そして三つ目は、体の色を引き立てるためだろう。

白い布の隣に置けば、肌の色がはっきりする。

九点の布の色を数えると、白が三点、青が二点、赤茶が一点だった。

九点を並べて、数えられたこと

題に水浴の語が入るのは四点。

裸の語が入るのは四点。

題がないものが一点である。

描かれた人の名は、九点のいずれにもない。

一人も特定されていない。

前の回で扱った肖像では、三点に名前があった。

こちらは、ゼロである。

材料も数えた。

板が三点、布が二点、紙が二点、大理石が一点、金属板が一点。

大きさの幅も広い。

いちばん小さいのは写真の画面で6.5×5.5センチ。

いちばん大きいのは大理石で117.5センチ。

十八倍の差がある。

そして、小さいものが多い。

九点のうち五点は、縦が40センチ未満である。

小さいものが多い理由

九点のうち五点は、縦が40センチに満たない。

板絵の二点は、手のひらに載る大きさである。

立体写真は、片方の像が6.5センチしかない。

素描も、大きな紙ではない。

大きいのは、大理石の一点と、油彩の二点だけである。

この偏りには、理由がありそうだ。

一つは、習作や下絵が多いことである。

習作は、売るために作られない。

だから、大きな支持体を使う必要がない。

もう一つは、置き場所の問題だと思う。

衣を着ていない体の絵は、掛ける場所が限られる。

大きければ、目立つ。

小さければ、しまえる。

立体写真は、器具に入れて一人で見る品である。

見せる範囲が、はじめから決まっている。

九点のうち、公の場に置くために作られたと考えられるのは、大理石の一点だけである。

彫刻は、屋内でも屋外でも据えられる。

そして、この一点は寄贈で館に入った。

出所の行には、作者と同じ姓の人の名がある。

家族が贈ったのだと考えられる。

館の記録は、そこまでは書いていない。

姓が同じである、という事実があるだけだ。

記録の札が、分類を作る

九点の記録には、分類の札が付いているものがある。

「女性の裸像」「水浴」といった語である。

これは、館が付けた分類の語だ。

題とは別に、検索のために付けられる。

九点のうち、札が付くのは三点だった。

残る六点には、そうした札がない。

同じ主題でも、館によって札の作り方が違う。

札があると、まとめて探せる。

なければ、題の語で探すしかない。

この回の九点も、記録の語で拾って集めた。

だから、札の有無で集まりやすさが変わる。

札の付いた三点は、どれも簡単に見つかった。

残る六点は、題に語があったから拾えた。

もし題も札もなければ、画像を全部見るしかない。

二万点近い在庫を、一点ずつ見ることになる。

現実には、それはできない。

だから、記録の語に頼る。

その結果、記録に語がない作品は、この回に入らない。

集まった九点は、館の記録の書き方が作った九点でもある。

この点は、はっきり書いておきたい。

九点で数えた割合は、在庫全体の割合ではない。

記録に語がある作品の中での割合である。

記録に書かれていないこと

館の記録は、描かれた人が誰かを書かない。

九点とも、そうである。

これは偶然ではないと思う。

前の回で見た肖像は、名前を残すために描かれた。

こちらの九点は、そうではない。

名前を消すことが、この主題の条件になっている。

特定の誰かではなく、体そのものを見せる。

そのために、題は「裸婦」「水浴の女」となる。

固有名詞が入ると、意味が変わってしまう。

もう一つ、記録が書かないことがある。

描かれた人が、どういう条件でそこにいたかである。

雇われたのか、そうでないのか。

報酬はあったのか。

九点のどの記録にも、書かれていない。

作った人の名は、九点とも残っている。

描かれた人の名は、九点とも残っていない。

第十八回で、記録は金と名前を残すと書いた。

だが、残るのは支払った側の名である。

そして、館の記録は用途も書かない。

九点のうち、商品として作られたと分かるのは一点だけである。

それも、館が作者の仕事を説明しているから分かった。

残る八点が、どこに置かれ、誰に見られたかは記録にない。

次の回は、顔を覆うものを見る。

面をつけた顔と、隠された顔を数えたい。

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