黒は、一色しかない——秋月等観・アンドレア・デル・サルト・ホーマーほか九点

横長の水彩である。
35×52.6センチある。
画面の下半分は、暗い緑の水である。
水面には、細かい波が立つ。
その水面を破って、魚が跳ね上がっている。
体は白く、腹が光る。
背は暗い緑で、水の色に近い。
口が大きく開き、赤い舌が見える。
口の端には、細い糸が掛かる。
糸は一本の線で、色はほとんど付いていない。
紙を掻き落として、白く残したものらしい。
糸は右上へ伸びる。
体のまわりには、しぶきが飛ぶ。
奥には、暗い木立が横に続く。
木立の輪郭は、はっきりしていない。
紙を濡らしてから色を置いたためである。
空には、小さな鳥が一羽飛んでいる。
館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。
材料の欄は長い。
透明水彩、不透明水彩、濡らし直し、吸い取り、掻き落とし、黒鉛。
六つの手が並んでいる。
題にある魚の名には、黒という語が入る。
しかし画面の魚は、白と暗緑である。
黒に近い色は、背中と、奥の木立と、水の深いところにある。
どれも、題の指す魚の名とは関係がない。
名前の黒と、画面の黒が、別々に存在している。
この画家の水彩については、水彩の紙で扱った。

横長の画面である。
76.4×92.5センチある。
画面の中ほどに、平らな頂の台地が横たわる。
台地の側面は、紫と褐色が混じる。
その上には、厚い雲が重なる。
雲は白と灰色と青が交互に置かれる。
そして雲から地上へ、青い筋が幾本も垂れている。
雨である。
筋はまっすぐで、太い刷毛で引かれている。
手前は、明るい黄土色の平地である。
平地は画面の下三分の一を占める。
雨の筋は、この平地までは届いていない。
小さな緑の茂みが点々と散る。
筆触は太く、色を混ぜずに並べてある。
館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。
題にある台地の名に、黒という語が入る。
しかし画面の台地は、紫と褐色である。
この画面で最も暗いのは、雲の下の影である。
影は青と灰色でできている。
黒の絵の具は、使われていないように見える。
暗さは、黒ではなく彩度の低い色で作られている。
題だけが、黒という語を持っている。
前の回で見た二本の松のある野原は、同じ画家の水彩だった。
同じ人が、色を混ぜずに並べる描き方を続けている。

一つの画面が、四つに区切られている。
区切りは、太い帯である。
帯は黒く、その両側に金の細い線が走る。
さらに外側には、赤い縁がある。
四つの区画には、それぞれ別の場面が描かれている。
左上は、花に囲まれた人物。
右上は、水辺の人物。
左下は、実を運ぶ人物。
右下は、暗い木立の中に、黒い衣の人物が立つ。
足元には、四角い石らしいものがある。
その区画だけ、色が沈んでいる。
館の記録では、この四つは季節とその営みを表している。
春は愛の追求、夏は水浴、秋は葡萄の収穫、そして冬は葬りの儀である。
そして館は、縁飾りについて書いている。
四つの場面は、どれも同じ大きさである。
季節に軽重をつけていない。
金と黒と赤の装飾的な縁が、古代の壁の装飾を思い起こさせ、この作の古典らしさを高めているという。
館の記録は、そう説明している。
つまり黒は、絵と絵のあいだの帯である。
帯がなければ、四つの場面は溶け合ってしまう。
帯があるから、四つは別々の季節として読める。
黒は、区切るための色である。
そして右下の場面では、黒はもう一度、衣の色として現れる。
同じ画面の中で、黒が二つの役目を持っている。
数えてみると
九点を並べ直す。
黒だけで作られた画面は、三点である。
二枚の破墨山水と、インクの素描。
黒が出発点になっているのが一点、衣の色が一点、縁飾りの帯が一点。
木を染めた黒が一点である。
そして二点では、黒は魚と山の名である。
もう一つ数えておく。
九点のうち、黒が薄められて灰色になっているのは三点である。
二枚の破墨山水と、メゾチント。
インクの素描では、線は薄められていない。
薄めれば、線そのものが消えるからである。
材料の性質が、階調の作り方を分けている。
もう一つ数える。
黒が実際に画面へ塗られているのは、六点である。
残る三点のうち、二点では黒は題の中だけにある。
一点では、黒は木に染み込んだ色である。
塗るという言い方が当てはまらない。
言えることと、言えないこと
言えるのは、黒が「薄めるか、密度で作るかの二択になる」ということである。
墨は水で薄められる。
だから、にじみと濃淡で山も木も作れる。
インクは薄められない。
だから、線の数で明るさを作る。
版では、黒い面を削って明るくする。
九点のうち六点で、階調の作り方が材料によって決まっていた。
墨は水で、インクは間隔で、版は削りで階調を作る。
油彩だけが、艶の差でも階調を作れる。
黒い衣の折れ目が見えたのは、そのためである。
言えないのは、黒がつねに暗さを意味するという話である。
家具の黒は、高価な木に似せるための色だった。
四季の黒は、絵と絵を区切る帯だった。
そして三点では、黒は色ですらなく、名前の一部だった。
最後に、はじめの一幅へ戻る。
墨の塊は、輪郭を持たない。
どこまでが山で、どこからが空白かは決められない。
決められないまま、それでも山に見える。
見えるのは、濃さの差があるからである。
差がなければ、ただの染みになる。
黒は一色しかないのに、水の量だけで奥行きが生まれる。
奥行きは、遠近法でも大きさの差でもない。
濃い墨が手前に、薄い墨が奥に見えるというだけである。
九点を数え終えて残るのは、その水の量のほうである。








