畑の絵は、刈った後を描く——アングラン・ルノワール・トロワイヨンほか九点
人は、腰をかがめている
人の描かれた三点で、姿勢を見たい。
三点とも、誰かが腰をかがめている。
貝を採る人、虫を捕る人。
いずれも、地面のものを取ろうとしている。
前に働く場所を扱った回でも、前かがみが多かった。
対象が低い位置にあれば、体は折れる。
畑や野の仕事は、地面が相手である。
だから、かがむ姿勢になる。
そして、かがんだ人は顔が見えない。
九点のうち、顔がはっきり見える人は数人しかいない。
版画の三人だけである。
こちらは、顔が正面から描かれている。
だが、その三人は仕事をしているのではない。
館の記述によれば、遊びとして虫を捕っている。
働く人は顔が見えず、遊ぶ人は顔が見える。
九点だけで言うには弱い話だが、そうなっていた。
働く姿を描くと、体の形が主になる。
遊ぶ姿を描くと、顔が主になる。
その差は、描く目的の差でもある。
畑の絵は、刈った後を描く
数えた結果から、一つのことが言えそうである。
畑の絵は、育っている最中を描かない。
九点のうち、耕地が描かれた五点を見ても、そうである。
刈った後の畑が一点。
乾いた休閑地らしい野原が一点。
草地が二点。
そして、農村の全景が一点である。
種を蒔く場面も、育つ場面もない。
理由は、たぶん見た目にある。
育っている畑は、緑一色の面になる。
面だけでは、画面に起伏が出ない。
刈った後なら、積み上げた塊ができる。
塊には影が付き、数えられる。
木炭画の一点では、その塊が十いくつ並んでいた。
数えられるものが並ぶと、奥行きが読める。
前に廊下や階段でも、同じ話をした。
等間隔の繰り返しが、距離を測らせる。
畑の穀物の山も、その一種である。
天気は、雲で示される
九点で、空の様子を見たい。
雲が描かれているのは、五点だった。
そのうち、厚い雲が二点。
薄い雲が三点である。
雨や雪が降っている画面は、一つもない。
畑の絵で天気が問題になるのは、当然である。
作物は天気で育ち、天気で枯れる。
だが、絵はたいてい晴れた日を描く。
理由の一つは、外で描くからだろう。
雨の日には、外に画架を出せない。
写真も同じで、露光に光が要る。
もう一つは、天気の悪い日には仕事をしないことだ。
働く姿を描くなら、晴れた日になる。
九点のうち、雲が厚い二点はいずれも人がいない。
牧草地と、農村の全景である。
人のいる三点では、空はおおむね明るい。
この対応は偶然かもしれない。
だが、雨の畑の絵が一点もないのは事実である。
館の記録に、天気の欄はない。
読めるのは、雲の厚さと影の濃さからだけである。
空が、広く取られる
判型と構図を見ておきたい。
九点のうち、横長が七点、縦長が二点である。
そして、空が画面の三分の一以上を占めるのが四点あった。
畑や野は平らなので、地平線が低くなる。
低くすれば、空が広くなる。
牧草地の一点では、雲が画面の半分を占めていた。
木炭画では、空と地面の境目そのものがない。
灰色の階調が、上から下まで続く。
これは、光を主題にした結果だろう。
館の記述も、夕方の拡散した光に触れていた。
境目を消すと、空も地面も同じものになる。
逆に、境目をはっきり引くと、土地の平らさが強調される。
野原の油彩では、木立の列が水平の線を作っていた。
その線の下が土地、上が空である。
同じ平らな土地でも、線を引くかどうかで印象が変わる。
記録は、作物の名を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、育てている作物の名を書く欄はない。
例外は、静物画の一点である。
こちらは題に、野菜と鳥の名が入っている。
そして館の記述が、秋の花の名にも触れていた。
版画の一点である。
だが、畑の作物については何も書かれていない。
木炭画の塊が何の穀物かは、分からない。
麦か、他の穀物か。
画像からも読めない。
輪郭がにじんでいるからである。
牧草地の草の種類も、書かれていない。
前に庭と森を扱った回でも、同じことを書いた。
植物の名は、記録の欄に入らない。
入るのは、絵具と紙と布の名である。
そして今回は、その原則の例外が一点あった。
食べ物として描かれたときだけ、名が書かれる。
畑にあるうちは、名がない。
台に載ると、名が付く。
これは、記録の欄の設計から出てくる差である。
静物画では、描かれた物が主題そのものになる。
だから題に名が入り、記録にも残る。
風景画では、描かれた物は背景である。
背景の名は、題にも記録にも入らない。
同じ野菜でも、畑にあるか台にあるかで扱いが変わる。
公開データを使うときは、この差を意識するとよい。
作物を調べたければ、静物画を探すほうが早い。
畑の絵を探しても、作物の名は出てこない。
今回、九点のうち作物の名が分かったのは一点だけだった。
その一点は、畑の絵ではなかった。
そして今回、いちばん多く出てきたのは土そのものだった。
黄土色の面、緑の面、灰色の階調。
九点のうち七点で、地面が画面の半分以上を占めている。
畑の絵とは、要するに地面の絵である。
その地面に、線を引き、塊を積み、人をかがませる。
そうやって、平らな面に読むところを作っている。
九点は、いずれもその工夫の記録だった。
工夫の中身は、線と塊と姿勢の三つに尽きる。
三つとも、画像を見れば数えられる。
数えれば、平らな土地の絵にも読むところができる。
読むところがなければ、目は画面を通り過ぎる。
畑の絵がしばしば退屈に見えるのは、そのためだろう。
退屈に見えないよう、画家は何かを置いている。
倒れた柵、積んだ穀物、かがんだ人、白い雲。
九点は、そのどれかを必ず持っていた。
持っていなければ、たぶん収蔵もされていない。
残るものと残らないものの差は、そこにもある。
面白いところのない画面は、描かれても残りにくい。
残った九点は、いずれも何かを置いていた。
その何かを数えるのが、この連載の仕事である。










