囲いが見える庭は、四点だけ——アルトドルファー・華嵒・モネほか九点
庭には、何が置かれるか
庭に置かれた物を数えたい。
七点で、置かれた物が読み取れた。
石が一点。
椅子が一点。
柵が二点。
桶と籠が一点。
木は、七点すべてにある。
いちばん多いのは木である。
これは当然かもしれない。
庭とは、木を植える場所だからだ。
だが、木の描かれ方は点ごとにまったく違う。
金地の板絵では、木は輪郭だけの記号になる。
葉は緑の面で塗られ、一枚ずつは描かれない。
石の浮き彫りでは、葉が一枚ずつ彫られている。
材が硬いほうが、細かく作られている。
画帖では、木は淡い墨の点の集まりである。
輪郭がなく、にじみで葉の量を示す。
油彩では、木は絵具の粒として置かれる。
近くで見ると、緑と桃色の点にしか見えない。
離れると、芽吹いた枝に見える。
同じ木でも、材と技法で表し方が変わる。
そして、どの記録にも木の種類は書かれていない。
書かれているのは、絵具や石の名だけである。
数え直す
九点を並べ直したい。
草木が描かれているのは、七点。
囲い、つまり塀や柵が見えるのは、四点である。
囲いのない庭が三点あった。
庭で人が何かをしているのは、五点。
そのうち、庭仕事をしている人は一人もいない。
祈る、眠る、針仕事をする、座る、寄りかかる。
庭は、作業の場ではなく、いる場所として描かれている。
例外は、山羊のいる庭である。
そこには道具があり、人が働いていた可能性がある。
ただし、その人は開口の奥にいて、よく見えない。
園は、失う場所として描かれる
九点のうち三点は、聖書に由来する園だった。
楽園追放が一点、ゲツセマネの園が二点である。
三点とも、園にいる人は幸福ではない。
一点目では、園から追い出されている。
残る二点では、これから起きることを前に祈っている。
眠っている人たちは、その祈りに付き合えていない。
つまり園は、安らぐ場所として描かれていない。
失うことが決まっている場所として描かれている。
これは、主題の側の事情である。
同じ場面が繰り返し作られたので、園の絵に偏りが出た。
九点のうち三点がそこに集まっている。
残る六点は、日常の庭である。
農家の庭、家の裏庭、家の前の木立。
そちらでは、人は座ったり、寄りかかったりしている。
失うという主題は出てこない。
同じ庭の語で、二種類の場面が並ぶ。
集めかたが語による以上、この混在は避けられない。
避けずに、そのまま並べたほうが分かることもある。
たとえば、囲いの描かれ方の違いである。
聖書の園には、柵が描かれることが多い。
日常の庭には、囲いが描かれないことが多い。
囲いを描くかどうかは、場面の性質と関係している。
囲いは、四点にしかない
庭の定義は囲いだ、と最初に書いた。
では、その囲いは実際に描かれているか。
九点で数えると、四点だった。
金地の板絵には、低い柵がある。
細い棒を横に渡した、簡単なものだ。
その柵が、祈る人と眠る人を分けている。
画帖には、丸い窓のある壁がある。
これは建物の壁だが、庭の囲いも兼ねている。
農家の庭には、板を打ちつけた小屋の壁がある。
写真の中庭には、煉瓦の壁とアーチがある。
残る五点には、囲いが見えない。
楽園追放の版画には、園の門も塀もない。
追い出されているのに、どこから出たのかが描かれていない。
庭に座る女の絵にも、囲いはない。
庭師の家の絵にも、塀は描かれていない。
つまり、庭であることは囲いでは示されていない。
何で示されているかというと、題である。
題に庭の語があるから、そこが庭だと分かる。
囲いがなくても、記録が庭と呼べば庭になる。
これは、前に見た室内の絵と同じ事情である。
画面ではなく、記録が場所の種類を決めている。
庭の絵は、小さい
寸法を並べて、気づいたことがある。
九点のうち六点が、五十センチに満たない。
いちばん小さいのは9.2×15.3センチの素描。
次が11.2×13.1センチの画帖の一葉。
その次が14.8×11.3センチの浮き彫りである。
三点とも、手のひらに載る。
いちばん大きいのは、66.3×93センチの油彩だった。
面積で比べると、最小と最大で四百倍以上の差がある。
庭は屋外だが、絵は小さくなりやすい。
理由の一つは、囲われているからだと思われる。
囲いがあると、描く範囲が最初から決まる。
決まった範囲は、小さな紙にも収まる。
野や山なら、どこまでも広がってしまう。
庭は、絵にちょうどよい大きさの自然なのかもしれない。
記録は、植物の名を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、描かれた植物の名を書く欄はない。
例外は、記述の欄に出てくる二点だった。
一点は、庭に立つ石についての記述である。
湖でとれた石灰岩で、穴が多い、と書かれている。
館は、その石の由来と、庭に立てて眺める習慣まで説明している。
もう一点は、木の枝の緑についての記述である。
館は、それが春の芽吹きを示すと書いている。
いずれも、館の学芸員が書いた解説である。
欄そのものには、植物の情報は入らない。
入るのは、材、寸法、年、番号、出所である。
そして今回、記述の欄がまったくない作品が四点あった。
そのうち二点は、制作年すら記録にない。
分かるのは、題と技法と寸法だけである。
そういう作品を扱うときは、画像から書くしかない。
書けるのは、見えているものだけである。
見えていないもの、たとえば庭の広さや、季節や、時刻。
それらは推測になる。
推測は推測として書く。
今回も、そのようにした。
庭の絵で確かなのは、木が描かれていることだけである。
木が何本あるか、どんな形かは数えられる。
だが、その木が何の木かは分からない。
分かるとすれば、それは絵の外の知識による。
九点のうち、木の種類を推せそうなのは二点だけだった。
竹らしいものと、松らしいものである。
どちらも、館の記録には書かれていない。










