面という語が指すもの——ロダン・アルデグレーファー・ワトキンズほか九点
かぶる面、装飾としての顔、顔だけを作った彫刻、そして覆う布。同じ語が四つのものを指す。九点で、その広がりを並べたい。かぶる面を確実に描いた作品は、九点のうち一点しかなかった。目が合う顔も、九点に一つもなかった。装飾の顔は口を開け、彫刻の顔は目を閉じる。

目を閉じた顔が、金属になっている
小さなブロンズがある。
高さ17.6センチ。
手のひらに載る大きさである。
顔だけが作られている。
首から下はない。
後頭部も、途中で終わっている。
目は閉じられている。
まぶたが薄く、下へ膨らむ。
頬骨が高く、その下がくぼむ。
口はやや開き、下唇が厚い。
表面は平らでない。
指で押した跡が、いくつも残っている。
金属は黒く、ところどころ緑がかっている。

館の記録は、制作年に疑問符を付けている。
1908年とみられる、という書き方である。
年が確定していない。
そして、材料はブロンズである。
粘土や石膏の原型から、金属に置き換えたものだ。
同じ原型から、複数の鋳造ができる。
館の記録は、何番目の鋳造かを書いていない。
第十五回で、複製と反復を扱った。
彫刻の複製は、版画とは事情が違う。
版は摩耗するが、原型は残る。
作った人が亡くなったあとに鋳ることもできる。
題に「仮面」とある。
だが、これはかぶるものではない。
彫刻の世界では、顔だけを作った作品をそう呼ぶことがある。
頭部像より、さらに範囲が狭い。
耳の後ろで、形が終わる。
前の回で、体をどこで切るかを数えた。
切る位置の話では、いちばん高い切り口が胸だった。
こちらは、顔の輪郭で切れている。
九点を選ぶとき、記録に面や覆いの語があるものを拾った。
すると、意味の違うものが集まった。
かぶる面、飾りとしての顔、彫刻の呼び名、そして覆い布。
順に並べたい。
顔だけを、器の形にする

表面の緑は、釉薬の色である。
土に薬をかけ、高い温度で焼くと、薬が溶けて膜になる。
厚くかかったところは濃く、薄いところは明るい。
この一点でも、頬の高いところが明るい。
薬が流れて薄くなったからである。
窯の中で、色は完全には制御できない。
同じ薬でも、置かれた場所で変わる。
こちらも顔だけである。
高さ29.9センチ。
先のブロンズより、少し大きい。
材料は焼き物である。
全体に濃い緑の釉薬がかかる。
目は細く閉じられている。
鼻筋が長く、まっすぐ通る。
唇は薄い。
頭の上から左右へ、髪が縦の筋になって流れる。
その筋が、そのまま下まで続く。
顔の下は、髪の束が壁のように立つ。
つまり、これは立たせるための形である。
顔だけでは倒れる。
髪を下まで伸ばし、それを台にしている。
前の回で、彫刻は胸で切ると書いた。
胸で切れば、断面が広く、そのまま置ける。
顔だけで切ると、そうはいかない。
だから、別の支えを考えることになる。
この一点の答えは、髪だった。
館の記録は、この作者を米国の人と書いている。
そして、館のある都市で活動した人らしい。
分類の欄は、装飾美術に入っている。
彫刻ではない。
顔の形をしていても、器や置物として扱われている。
かぶるための面

番号に、英字の記号が付いている。
日本の版画をまとめて示す記号である。
館は、部門ごとに違う番号の作り方をする。
年で始まる番号もあれば、記号で始まる番号もある。
第十四回で、収蔵番号の作りを扱った。
同じ館の中でも、番号の形は一つではない。
小さな縦長の紙である。
縦14.1センチ、横7.9センチ。
上のほうに、蝶が一匹いる。
翅は左右に開き、赤と青と緑で塗り分けられる。
触角が細く伸びる。
下のほうに、面が一つ置かれている。
赤い線が、目のまわりから頬へ大きく走る。
青い色が、目の上に置かれる。
口は大きく開き、歯が見える。
面と蝶のあいだに、細い線が一本弧を描く。
紐だろうか、それとも蝶の飛んだ跡だろうか。
判断はつかない。
右下に、赤い印がある。
これは、かぶるための面である。
芝居で使われる、特定の役の面らしい。
館の記録は、その役の説明を題に括弧で入れている。
摺物というのは、私的に配るために刷られた版画である。
売り物ではない。
だから、部数が少なく、贅沢な材料が使われることがある。
第十五回で、複製と反復を扱った。
摺物は、複製でありながら、広く流通しない。
面をつけて集まる場面

館の記録では、出所の行に個人の名がある。
1934年の遺贈で館に入った。
その人の名は、題にも作者にも関係がない。
持っていた人の名である。
横に長い画面である。
縦48.3センチ、横96.5センチ。
横が縦の二倍ある。
描かれているのは、大きな室内である。
左右に、二階建ての桟敷が並ぶ。
その中に、人物が何人も座る。
中央の奥に、扉のある壁がある。
その上に、幕を張った台がある。
台の上にも人物がいる。
手前の床には、二十人以上が立つ。
衣は赤、白、青、金である。
顔の小さいものは、五ミリほどしかない。
面をつけているかどうかは、判別しにくい。
いくつかの顔は、白い部分が広い。
それが面かもしれない。
館の記録の分類には、面を示す札が付いている。
題にも、仮面舞踏会とある。
つまり、記録の側は面があるとしている。
だが、画像で一つずつ確かめることはできない。
小さすぎるからである。
第十九回で、遠くの人は要点だけになると書いた。
面も、遠ければ白い点になる。
飾りとしての顔
ここから三点は、かぶる面ではない。
装飾の中に置かれた顔である。

この種の版画には、寸法が記録されていないことが多い。
九点のうち、寸法欄が空なのは三点だった。
いずれも、装飾の図案である。
同じ館の同じ部門でも、記録の細かさが揃っていない。
古く入った作品ほど、欄が空いていることが多い。
この三点は、いずれも1920年代から40年代に館へ入っている。
縦長の画面が、装飾で埋め尽くされている。
中央に、大きな顔がある。
目を見開き、口を開けている。
髭と髪が、左右へ渦を巻いて広がる。
その顔の下に、渦巻きと葉の形が組み合わさる。
上のほうには、体が魚になった人物が二人いる。
左右対称に配置されている。
下のほうには、子どもが二人。
それぞれ杯のようなものを持つ。
余白がほとんどない。
線は細く、密度が高い。
左下に、小さな印と年がある。
これは、図案である。
家具や金属細工の装飾を作るための見本として刷られた。
そういう版画が、十六世紀にたくさん作られている。
中央に置かれた顔は、装飾の部品である。
誰の顔でもない。

こちらも図案に近い。
中央に、盾の形がある。
その盾の面に、顔が一つ彫られている。
髭を生やし、口を開けている。
盾の左右に、翼の生えた子どもが立つ。
どちらも、片手で盾を支える。
体はひねられ、脚が交差する。
下に、地面を示す短い線がある。
画面の下に、小さく年が入る。
盾は、家の印を入れるためのものである。
そこに顔を置くと、印の代わりになる。
だが、この顔は特定の家を示していない。
装飾として置かれた顔である。

九点でいちばん細長い形である。
縦の帯のような画面に、装飾が上から下まで続く。
上には、燭台のような形がある。
その下に、渦巻きと葉が重なる。
中ほどに、顔が一つある。
さらに下に、翼のある子どもと、体が魚になった人物がいる。
いちばん下は、盾のような形で終わる。
線は細く、地は白いままである。
これも、装飾の見本である。
柱や枠を飾るための図案だと考えられる。
顔は、その並びの一部として置かれる。
九点のうち、装飾の中の顔は三点だった。
いずれも、口を開けている。
いずれも、髭がある。
そして、いずれも誰の顔でもない。
図案は、何のために刷られたか
装飾の三点は、いずれも図案である。
作品として鑑賞するためではない。
職人が見て、真似るために作られた。
金属細工、木彫り、石彫り、織物。
どの分野でも、同じ図案が使える。
だから、こうした版画は広く売れた。
そして、広く売れたということは、多く残るということでもある。
九点のうち三点が図案なのは、そのせいかもしれない。
図案の版画には、共通する作りがある。
左右が対称になっている。
上下に、はっきりした始まりと終わりがある。
余白が少ない。
そして、地面や空といった背景がない。
背景を描くと、その場所に縛られてしまう。
図案は、どこに使われるか分からない。
だから、場所を持たない画面にする。
三点とも、人物は空中にいるように見える。
立っているのか浮いているのか、分からない。
これは、図案という用途から来ている性質である。
第十九回で、背景を作らない絵を数えた。
理由は、そのときと違う。
肖像が背景を作らないのは、顔を目立たせるためだった。
図案が背景を作らないのは、使い道を限定しないためである。
同じ「背景がない」でも、事情が逆である。
顔を覆うもの

淡い色の素描である。
人物が立ち、体をやや横に向ける。
顔はこちらを向く。
頭から足元まで、薄い布が掛かる。
布は透けていて、下の衣の色が見える。
衣は淡い赤である。
輪郭は、赤チョークと黒鉛で引かれる。
背景は塗られていない。
紙のままである。
画面の周囲に、細い枠線が二重に引かれている。
館の記録によれば、二人が重なって描かれているという。
そして、その二人が誰かについては、推測が書かれている。
同じ年にロンドンを訪れた使節の妻たちの姿を、想像で描いたものかもしれない。
館は、そう書いている。
これは館の見解である。
こちらで確かめられるのは、布が顔の周りにある、ということまでだ。
覆う布は、面と似た働きをする。
顔を隠す、あるいは、隠すそぶりを作る。
ただし、この一点では顔が見えている。
布は頭の上と体を覆い、顔は出ている。
隠すというより、囲んでいる。
覆いの語が、地名になる

九点で、最後の一点は写真である。
手前に、草の生えた低い場所が広がる。
その奥に、太い木が何本も立つ。
左に、枝の張った大きな木がある。
さらに奥に、切り立った岩壁が立ち上がる。
その右手に、細い滝が高い位置から落ちる。
水は白い筋になり、下のほうでほどける。
空は白く飛んでいる。
画面は縦40.1センチ、横52.4センチある。
九点でいちばん大きい。
館の記録によれば、これは大判の印画である。
初期の写真は、手に取って見る小さなものが多かった。
西部の大きな景色を伝えるために、大判が作られたという。
これは館の説明である。
題にある覆いの語は、滝の名前の一部である。
落ちる水が、薄い布のように見えることから付いた名だと言われる。
つまり、これも人の顔とは関係がない。
前の回でも、同じことが起きた。
足の話では、足の語の六点が人の足でなかった。
体の部位や、身につけるものの名は、地形の名に転用される。
顔だけの彫刻は、どこで終わるか
九点のうち、顔だけを作った彫刻は二点だった。
その二点の終わり方を比べたい。
ブロンズのほうは、耳の後ろで急に終わる。
裏側は空になっている。
壁に掛けるか、台に立てるかして見せる形である。
館の記録は、奥行きを9センチと書いている。
顔の高さが17.6センチだから、その半分ほどである。
つまり、頭の前半分だけがある。
焼き物のほうは、事情が違う。
奥行きは10.2センチ。
高さ29.9センチに対して、三分の一である。
こちらも、後ろは浅い。
ただし、髪が下まで伸びているぶん、立つ。
顔だけの彫刻には、この問題がつきまとう。
前しかないので、支えが要る。
壁に掛けるか、台を作るか、下へ形を伸ばすか。
三つのうち、どれを選ぶかで見え方が変わる。
壁に掛ければ、顔が浮かんで見える。
台に立てれば、置物になる。
下へ伸ばせば、この一点のように、顔と髪が一体の形になる。
開いた口と、閉じた目
九点の顔の表情も数えた。
口を開けているものが四点である。
装飾の三点と、摺物の面。
いずれも、かぶる面か、飾りの顔である。
目を閉じているものが二点。
顔だけの彫刻の二点である。
どちらも、まぶたを下ろしている。
これは、偶然ではないと思う。
装飾の顔は、目立たなければならない。
だから口を大きく開け、髭を広げる。
遠くからでも、そこに顔があると分かる。
顔だけの彫刻は、逆である。
近くで見られることを前提にしている。
目を閉じれば、視線が生まれない。
見る側は、いつまでも見ていられる。
第二回で、こちらを見る顔を数えた。
視線の話では、目が合うと見返される感じがあった。
目を閉じた顔には、それがない。
九点のうち、目が合う顔は一つもなかった。
面も、装飾の顔も、こちらを見ていない。
面をつけると、何が起きるか
面の働きを、九点から読みたい。
まず、顔が固定される。
生きた顔は動く。
眉が動き、口が動き、目が動く。
面をつけると、その動きが止まる。
一つの表情だけが、ずっと続く。
摺物の一点に描かれた面は、口を大きく開けている。
その形は、外さないかぎり変わらない。
次に、誰かが分からなくなる。
仮面舞踏会は、その性質を使った集まりである。
身分の違う人が同じ場に集まっても、面があれば分からない。
館の記録は、そこまで説明していない。
書いてあるのは、題と、寸法と、遺贈者の名である。
三つ目に、別の何かになる。
芝居の面は、役を割り当てる道具である。
面をつけた人は、その役として動く。
顔を隠すことと、別の顔になることは、同じ行為の裏表である。
そして、装飾の顔には、この三つのどれも当てはまらない。
そこにあるのは、顔の形をした模様である。
かぶる相手がいない。
隠す顔もない。
演じる役もない。
同じ語で呼ばれていても、働きがまったく違う。
記録の語だけを追うと、そこが見えなくなる。
九点を並べて、数えられたこと
かぶる面が写るのは二点である。
摺物の一点と、仮面舞踏会の一点。
ただし、舞踏会のほうは判別しにくい。
装飾としての顔が三点。
彫刻の呼び名としての面が二点。
覆う布が一点。
滝の名が一点である。
つまり、九点のうち、かぶる面を確実に描いたものは一点しかない。
材料も数えた。
紙が五点、金属が一点、陶器が一点、布が一点、写真が一点。
紙の五点のうち、四点が版画である。
装飾の図案が版画で作られるのは当然でもある。
見本は、配るためのものだからだ。
記録に書かれていないこと
面の語は、記録の中で広く使われている。
顔にかぶるもの。
装飾の中の顔。
顔だけを作った彫刻。
そのどれもが、同じ語で呼ばれる。
だが記録は、その区別を書かない。
題に「仮面」とあっても、どの意味かは画像を見ないと分からない。
そして、面をつけている人が誰かは、当然ながら書かれない。
面は、それを隠すためのものである。
仮面舞踏会の一点には、二十人以上が描かれている。
名前は一つも記録にない。
前の回で見た裸の九点も、名前がなかった。
顔を隠す絵と、顔を見せる絵で、扱いが同じになる。
名前が残るのは、肖像として注文された場合だけである。
そして、この回でただ一つ名前が残るのは、ロダンの一点だった。
面と呼ばれながら、実在の人物の顔を写している。
題に、その人の名が二通りで書かれている。
芸名と、本名である。
もう一つ、数えておきたいことがある。
九点のうち、顔が正面を向くものは五点だった。
装飾の三点と、彫刻の二点である。
いずれも、左右対称に近い。
面や飾りの顔は、正面から見られることを前提に作られる。
横から見ると、意味が薄れる。
残る四点は、人物が斜めか横を向く。
そちらは、場面のある絵である。
場面があれば、向きが必要になる。
誰かに向かって立つか、どこかへ歩くかしなければならない。
正面を向いた顔だけの作品には、その必要がない。
次の回は、立つという姿勢を見る。
体全体が、どう画面に置かれるかを数えたい。


