面という語が指すもの——ロダン・アルデグレーファー・ワトキンズほか九点

九点で、最後の一点は写真である。
手前に、草の生えた低い場所が広がる。
その奥に、太い木が何本も立つ。
左に、枝の張った大きな木がある。
さらに奥に、切り立った岩壁が立ち上がる。
その右手に、細い滝が高い位置から落ちる。
水は白い筋になり、下のほうでほどける。
空は白く飛んでいる。
画面は縦40.1センチ、横52.4センチある。
九点でいちばん大きい。
館の記録によれば、これは大判の印画である。
初期の写真は、手に取って見る小さなものが多かった。
西部の大きな景色を伝えるために、大判が作られたという。
これは館の説明である。
題にある覆いの語は、滝の名前の一部である。
落ちる水が、薄い布のように見えることから付いた名だと言われる。
つまり、これも人の顔とは関係がない。
前の回でも、同じことが起きた。
足の話では、足の語の六点が人の足でなかった。
体の部位や、身につけるものの名は、地形の名に転用される。
顔だけの彫刻は、どこで終わるか
九点のうち、顔だけを作った彫刻は二点だった。
その二点の終わり方を比べたい。
ブロンズのほうは、耳の後ろで急に終わる。
裏側は空になっている。
壁に掛けるか、台に立てるかして見せる形である。
館の記録は、奥行きを9センチと書いている。
顔の高さが17.6センチだから、その半分ほどである。
つまり、頭の前半分だけがある。
焼き物のほうは、事情が違う。
奥行きは10.2センチ。
高さ29.9センチに対して、三分の一である。
こちらも、後ろは浅い。
ただし、髪が下まで伸びているぶん、立つ。
顔だけの彫刻には、この問題がつきまとう。
前しかないので、支えが要る。
壁に掛けるか、台を作るか、下へ形を伸ばすか。
三つのうち、どれを選ぶかで見え方が変わる。
壁に掛ければ、顔が浮かんで見える。
台に立てれば、置物になる。
下へ伸ばせば、この一点のように、顔と髪が一体の形になる。
開いた口と、閉じた目
九点の顔の表情も数えた。
口を開けているものが四点である。
装飾の三点と、摺物の面。
いずれも、かぶる面か、飾りの顔である。
目を閉じているものが二点。
顔だけの彫刻の二点である。
どちらも、まぶたを下ろしている。
これは、偶然ではないと思う。
装飾の顔は、目立たなければならない。
だから口を大きく開け、髭を広げる。
遠くからでも、そこに顔があると分かる。
顔だけの彫刻は、逆である。
近くで見られることを前提にしている。
目を閉じれば、視線が生まれない。
見る側は、いつまでも見ていられる。
第二回で、こちらを見る顔を数えた。
視線の話では、目が合うと見返される感じがあった。
目を閉じた顔には、それがない。
九点のうち、目が合う顔は一つもなかった。
面も、装飾の顔も、こちらを見ていない。
面をつけると、何が起きるか
面の働きを、九点から読みたい。
まず、顔が固定される。
生きた顔は動く。
眉が動き、口が動き、目が動く。
面をつけると、その動きが止まる。
一つの表情だけが、ずっと続く。
摺物の一点に描かれた面は、口を大きく開けている。
その形は、外さないかぎり変わらない。
次に、誰かが分からなくなる。
仮面舞踏会は、その性質を使った集まりである。
身分の違う人が同じ場に集まっても、面があれば分からない。
館の記録は、そこまで説明していない。
書いてあるのは、題と、寸法と、遺贈者の名である。
三つ目に、別の何かになる。
芝居の面は、役を割り当てる道具である。
面をつけた人は、その役として動く。
顔を隠すことと、別の顔になることは、同じ行為の裏表である。
そして、装飾の顔には、この三つのどれも当てはまらない。
そこにあるのは、顔の形をした模様である。
かぶる相手がいない。
隠す顔もない。
演じる役もない。
同じ語で呼ばれていても、働きがまったく違う。
記録の語だけを追うと、そこが見えなくなる。
九点を並べて、数えられたこと
かぶる面が写るのは二点である。
摺物の一点と、仮面舞踏会の一点。
ただし、舞踏会のほうは判別しにくい。
装飾としての顔が三点。
彫刻の呼び名としての面が二点。
覆う布が一点。
滝の名が一点である。
つまり、九点のうち、かぶる面を確実に描いたものは一点しかない。
材料も数えた。
紙が五点、金属が一点、陶器が一点、布が一点、写真が一点。
紙の五点のうち、四点が版画である。
装飾の図案が版画で作られるのは当然でもある。
見本は、配るためのものだからだ。
記録に書かれていないこと
面の語は、記録の中で広く使われている。
顔にかぶるもの。
装飾の中の顔。
顔だけを作った彫刻。
そのどれもが、同じ語で呼ばれる。
だが記録は、その区別を書かない。
題に「仮面」とあっても、どの意味かは画像を見ないと分からない。
そして、面をつけている人が誰かは、当然ながら書かれない。
面は、それを隠すためのものである。
仮面舞踏会の一点には、二十人以上が描かれている。
名前は一つも記録にない。
前の回で見た裸の九点も、名前がなかった。
顔を隠す絵と、顔を見せる絵で、扱いが同じになる。
名前が残るのは、肖像として注文された場合だけである。
そして、この回でただ一つ名前が残るのは、ロダンの一点だった。
面と呼ばれながら、実在の人物の顔を写している。
題に、その人の名が二通りで書かれている。
芸名と、本名である。
もう一つ、数えておきたいことがある。
九点のうち、顔が正面を向くものは五点だった。
装飾の三点と、彫刻の二点である。
いずれも、左右対称に近い。
面や飾りの顔は、正面から見られることを前提に作られる。
横から見ると、意味が薄れる。
残る四点は、人物が斜めか横を向く。
そちらは、場面のある絵である。
場面があれば、向きが必要になる。
誰かに向かって立つか、どこかへ歩くかしなければならない。
正面を向いた顔だけの作品には、その必要がない。
次の回は、立つという姿勢を見る。
体全体が、どう画面に置かれるかを数えたい。










