白は、塗らずに作る——鈴木春信と錦絵の誕生
見立てという遊び
春信の絵には、もうひとつ大きな特徴がある。見立てである。
古典の場面や有名な和歌を、当世の若い男女に置き換えて描く。

この一枚は、朝顔の句で知られる女性俳人を題材にしている。ただし描かれているのは、当時の若い娘の姿である。
娘は竹の支柱に手を添え、朝顔の蔓を見ている。支柱の根元には、木でできた桶が下がっている。
朝顔に釣瓶を取られてしまい、隣家へ水をもらいに行く——というのが、この俳人の代表句である。
朝顔と桶が並んでいれば、当時の人はそれで句を思い出せた。句の言葉は一字も書かれていない。
古典を知っている人は、朝顔と桶から元の句を思い出す。知らない人は、朝顔の手入れをする娘の絵として見る。
二重に楽しめる仕掛けだ。

百人一首の歌人を扱った シリーズ でも同じことをしている。人物は平安の名を持ちながら、着物も髪も当時の流行である。
これは教養の遊びであると同時に、商品としての工夫でもある。古典に取材すれば、絵に「格」がつく。
風俗画は身分の低い分野とされていた。古典を引くことで、その低さを少し補える。

同じ画面に古典の人物と当世の人物を同居させた例もある。過去と現在が一枚に収まっている。
なぜ見立てが流行ったのかについては、色数の増加と無関係ではないと考えたい。
色が少なかった時代、画面で語れる情報は限られていた。線と、二、三色。
色が増えると、着物の柄、室内の調度、草花の種類まで描き分けられる。細部で語れるようになる。
見立ては、細部に手がかりを仕込む遊びである。朝顔と桶で句を思い出させる、というような。
技術が細部を可能にし、細部が遊びを可能にした。そう並べると、順序が見えてくる。
町の有名人
もうひとつ、春信が始めたことがある。実在の町の女性を描くことである。

この判型に驚いてほしい。縦横比が五対一を超える。
柱絵という。家の柱に貼るための細長い版画である。
描かれているのは、笠森稲荷の門前にあった水茶屋の娘、お仙である。看板に「かぎや」と店の名が見える。
彼女は遊女でも役者でもない。町の茶屋で働く娘である。それが版画になり、評判になった。
この構造は、二十数年後に歌麿が拡大することになる。町の女性を名前と顔で売る商売の、最初期の例である。
歌麿がそれをどこまで押し進めたかは、別のコラムで扱っている。
春信は、四十代で死んだ
錦絵の確立から数年後、1770年に春信は没した。四十代の半ばと推定されている。
もっとも充実した時期に、突然いなくなった格好である。
その後、美人画の主流は変わっていく。春信の描く人物は、細く、小さく、性別の差が乏しい。少年とも少女ともつかない体つきをしている。
次の世代の鳥居清長は、背の高い、堂々とした人物を描いた。その次の歌麿は、顔を大きく取った。
十年ごとに理想の体型が変わっている。流行商品としての性格が、ここにも出ている。
清長の群像についてはこちらのコラムで扱っている。
複製の、複製
最後に、当サイトの記録から気づいたことを書いておきたい。
春信の作品として公開しているもののうち、いくつかには所蔵館の記録に「おそらく二十世紀初頭の制作。1770年の原画にもとづく」と記されている。
つまり後世の複製である。
版画では、こういうことが起きる。版木が残っていれば後年でも摺れるし、版木が無くても新しく彫り直せる。
そして、よくできた複製は素人目には見分けがつかない。
美術館はそれを調べて記録に残す。私たちがその記録を読めるのは、公開されているデータのおかげである。
作者欄や制作年が動く話は、フェルメールのコラムでも扱っている。版画の場合、動くのは作者ではなく「いつ摺られたか」のほうである。
見立て——技術は、道楽から来る
ここからは書き手の見方である。
錦絵の成立で私がいちばん面白いと思うのは、採算を無視できる場所で技術が育ったという点だ。
売り物として作られていたら、色数は増えなかっただろう。原価が合わないからである。
私的な贈答品という、採算の外にある場所で技術が磨かれた。そして、磨かれた技術が市販品に降りてきた。
似たことは他の分野でも起きている。宮廷や教会の注文で技術が育ち、あとから広く使われるようになる。
ただ、絵暦の場合はもう少し軽い。数寄者の遊びである。
遊びが技術を押し上げた例として、これはかなり気持ちのよい話だと思う。
もうひとつ、この転換で失われたものにも触れておきたい。
手彩色の時代、一枚ずつ塗られた色には個体差があった。塗り手の気分や腕によって、同じ図柄が違う顔をした。
多色摺になると、その差は小さくなる。版で決まってしまうからだ。
代わりに増えたのが、摺りの差である。絵具の濃さ、ぼかしの位置、紙の状態。
差の出どころが、彩色から摺りへ移った。個体差そのものが消えたわけではない。
版画は複製の技術だが、完全に同じものは一枚も無い。錦絵になっても、その性格は変わらなかった。
もっとも、この経緯は後世の整理でもある。絵暦だけが原因ではなく、紙の生産や彫りの熟練といった条件が同時に揃った結果と見るべきだろう。単一の起源に還元しすぎないようにしたい。
暮らしへ——判型を、意識してみる
最後に、見方の提案をひとつ。
春信の作品を並べると、判型がばらばらであることに気づく。
中判、柱絵、絵本の一頁。それぞれ縦横比が違い、置かれる場所も違う。
柱絵は柱に貼る。中判は手に持って見る。絵本は綴じて読む。
どこに置かれるかで、絵の形は決まる。
これは現代でも変わらない。縦長の画面で見る画像と、横長のモニタで見る画像では、構図の作り方が違う。
家に絵を飾るときも、まず場所を決めるとよい。細長い壁面なら細長い絵が合う。壁の形に合わない絵は、どんなに良くても落ち着かない。
飾る場所と光の条件についてはこちらのコラムで扱っている。
そして紙の作品は、光と湿気に弱い。春信の淡い色は、とりわけ褪せやすい部類である。




