白は、塗らずに作る——鈴木春信と錦絵の誕生
見当という、小さな刻み目
まず、技術の話をしたい。
多色摺の最大の難所は、位置合わせである。
十枚の版木に紙を重ねるとき、一枚でもずれれば、輪郭から色がはみ出す。目で合わせていては追いつかない。
そこで使われたのが見当である。
版木の縁に、鉤形の切り込みと、まっすぐな切り込みを彫っておく。紙の角をその鉤に当て、辺を直線に沿わせる。
こうすれば、何度重ねても同じ位置に紙が乗る。
原理としては単純だが、これが無ければ十色の重ね摺りは不可能だった。
紙にも条件がある。厚く、丈夫で、水を含んでも伸び縮みの少ない紙が要る。奉書紙のような上質な和紙が使われた。
薄い紙では、湿らせて摺るうちに寸法が変わってしまう。位置合わせが利かなくなる。
つまり錦絵の成立には、彫りの工夫と、紙の質と、摺師の腕が同時に必要だった。
なぜ、急に金をかけられたのか
技術があっても、金が出なければ実現しない。多色摺は高くつく。
ここで、変わった経緯が絡んでくる。
きっかけは、絵暦の流行だったとされる。
江戸時代の暦は、月の大小——三十日の月と二十九日の月——が年によって入れ替わる。それを覚えるための小さな刷り物が絵暦である。
大小暦とも呼ぶ。その年の大の月と小の月を、絵の中に隠して示す。
数字をそのまま並べるのでは芸がない。着物の柄に数字を織り込む、灯籠の格子に紛れ込ませる、木の枝ぶりで示す。
隠し方の巧みさを競う遊びである。もらった側は、絵の中から数字を探し出す。
十八世紀の半ば、この絵暦を凝った意匠で作り、仲間内で交換することが、裕福な武家や商人のあいだで流行した。
中心にいたのは、旗本や、趣味に金を使える町人たちである。俳諧や狂歌の集まりと重なる、いわゆる数寄者の世界だった。
彼らは絵師に注文し、彫師と摺師に払い、刷り上がったものを互いに贈り合った。
ここが重要である。売り物ではない。
売り物なら原価を抑えねばならない。私的な交換品なら、費用は注文主が出す。
その結果、採算を無視した豪華な摺りが可能になった。色数を十枚に増やしても、誰も文句を言わない。
春信は、この絵暦制作の中心にいた絵師だった。
そこで確立した技術が、そのまま市販の版画へ転用される。これが錦絵の始まりだと説明されている。
道楽が技術を押し上げ、押し上がった技術が商品に降りてきた。順序としては面白い。
もっとも、これは後世の整理でもある。
絵暦の制作記録が完全に残っているわけではないし、市販の錦絵へ移る過程を一枚ずつ追えるわけでもない。
はっきりしているのは、1765年前後を境に、市場に出回る版画の色数が急に増えたという結果のほうである。
判型も、この時期に定まった
色数と一緒に、大きさの規格も整理されていった。
春信が主に使ったのは中判である。縦26センチ、横19センチほど。
大判より小さく、手に持って見るのにちょうどよい。数枚を並べて楽しむこともできる。
次の世代になると、大判が主流になる。清長は大判を横に二枚、三枚と並べた続き物を得意とした。歌麿は大判いっぱいに顔を置いた。
つまり、判型の選択は世代ごとに変わっている。
売り方が変われば、紙の大きさも変わる。当たり前のようだが、この対応関係は見落とされやすい。
紙を、へこませる
もうひとつ、春信の版画でよく使われた技法がある。

空摺という。絵具を載せない版木を強く押し当て、紙に凹凸だけをつける技法である。
白い着物の地紋、雪の盛り上がり、布の折り目。色では表せない微細な起伏を、紙そのものの変形で示す。
厚い和紙でなければできない。そして、写真では非常に写りにくい。
画面越しに見ると、この技法はほとんど分からない。実物を斜めから見て、はじめて浮かび上がる。
私たちが画像で見ている浮世絵は、この情報を落としている。頭に入れておきたい。
同じ理由で、当時の摺師は他にもいくつかの技法を使い分けていた。
きめ出しは、裏から型を当てて紙を膨らませる。人物の顔や布の膨らみに使う。
布目摺は、布を当てて摺り、織り目の質感を紙に写す。着物の生地感を出すためのものだ。
雲母摺は、雲母の粉を撒いて光沢を出す。背景に使えば、角度によって輝く。
いずれも、平面の紙に触感を与える工夫である。
版画は複製技術だが、この段階の工夫は一枚ごとの手仕事に近い。同じ図柄でも、摺師によって出来が変わる理由がここにある。
同じ主題を、二度描く
いま挙げた二枚は、ほとんど同じ意匠である。
雪をかぶった柳、黄色い傘、黒い人物と白い人物。姿勢も配置もほぼ重なる。
違いは周辺にある。二枚目には画面の上端に横線が引かれ、足元に地面の線が入る。人物の立つ場所が明示されている。
一枚目にはそれがない。人物は雪の中に浮いているように見える。
同じ意匠が、細部を変えて複数の版で出回っていたことになる。
版元にとって、当たった意匠は資産である。売れる型は、形を変えて何度でも出す。
そして版木そのものが財産だった。版木は売買され、版元が変われば作者名の部分だけ彫り直されることもあった。
彫り直しの跡は、いま残る作品の落款を比べると見つかることがある。
そして後年には、これを写した複製も作られた。どこまでが同時代の摺りで、どこからが後世の複製かは、一枚ずつ調べるしかない。