暮らしと名画

収穫は、刈ったあとを描く——ブルトン・ドービニー・ホーマーほか九点

四季のうち秋の像
ブリストル磁器工房《四季のうち秋の像》1775年ごろ。館の記録では、硬質磁器。全体は28.4×16.2×13.7センチ。番号は1917.611.1。クリーヴランド美術館蔵。ブリストル磁器工房《四季のうち秋の像》クリーヴランド美術館蔵

小さな磁器の像である。

全体は28.4×16.2×13.7センチしかない。

少女が立つ。

体はやや右を向く。

顔は下を向き、目は伏せられる。

頭には、花と葉の輪が載る。

輪には、青と桃色の粒がある。

葡萄の実らしい。

上着は白く、袖が短い。

肩には、桃色の布が掛かる。

裾は白く、細かい網目の文様がある。

右手で、裾を持ち上げる。

左の腰に、籠を当てる。

籠は黄緑で、口が広い。

籠の中に、果実が積まれる。

果実は丸く、色が違う。

葡萄と、李と、林檎らしい。

足元は、緑と褐色の台である。

台には、小さな葉が付く。

館の記録では、子ども時代を無垢で素朴な時期とする考えは、十八世紀の後半に現れた。

その理解から、子どもを四季の擬人像とする表現が数多く作られたという。

そして館は、この像について書いている。

秋は、腰に果実の籠を当てながら、戯れに裾を揺らす少女として表される。

籠を満たす葡萄と李と林檎が、豊かな秋の実りを示すという。

館の記録は、そう説明している。

つまり収穫は、季節の名になっている。

九点のうち、収穫が擬人像なのは、この一点である。

籠の中の果実は、三種類ある。

どれも、同じ季節に実るとはかぎらない。

季節を示すために、揃えて盛られている。

実際の収穫とは、順序が違う。

織物から、金を取り出す

最後の一点では、収穫の語が別のものに使われる。

四季
ゴブラン製作所《四季》1535年ごろ意匠、1600年代半ばから後半に織る。館の記録では、羊毛、絹、金糸の綴織。平均256.5×264.2センチ。番号は1952.544。クリーヴランド美術館蔵。ゴブラン製作所《四季》クリーヴランド美術館蔵

四枚の大きな織物である。

一枚あたり、平均256.5×264.2センチある。

人の背より、はるかに高い。

四枚は、横に並べて掛けられる。

どれも、縁に太い枠がある。

枠には、植物の文様が回る。

中央の場面には、人が大勢いる。

数えると、一枚に十人以上いる。

人びとは、屋外にいる。

一枚目では、水辺で釣りをする。

二枚目では、穀物を刈り集める。

三枚目では、葡萄を踏む。

四枚目では、氷の上を滑る。

色は、黄土と緑と赤が多い。

金の糸が、ところどころに光る。

奥には、建物や木立がある。

図版では、細部までは見えない。

四枚は、いずれも縦横がほぼ同じである。

正方形に近い形である。

掛ける壁の高さが、その寸法を決めている。

館の記録では、それぞれの織物は季節にふさわしい田舎の仕事を描いている。

春は釣りと庭仕事、夏は穀物の収穫、秋は葡萄酒造り、冬は氷滑りであるという。

そして館は、こう続けている。

十八世紀から十九世紀に綴織が流行らなくなると、多くが焼かれた。

金属の糸を取り出して、新しい貨幣を鋳るためだったという。

館の記録は、そう説明している。

つまり織物から金を取り出すことも、収穫と呼ばれている。

育てたものではなく、作られたものを回収する。

九点のうち、収穫が回収を指すのは、この一点である。

そして、この四枚は焼かれずに残った。

金の糸は、いまも織物の中にある。

館の記録は、残らなかった多くのほうにも触れている。

数えられるのは、残ったものだけである。

焼かれた織物の数は、記録にない。

消えたものは、数に入らない。

綴織の二つの名については、二つの名前で扱った。

数えてみると

九点を並べ直す。

束や荷を運んでいるのは、三点である。

牛の荷車、湿地の舟、そして驢馬の背。

刈り終わった野が、二点。

収穫のあとの宴が、一点。

収穫の月を待つ場面が、一点。

収穫が擬人像なのが、一点。

収穫が金属の回収なのが、一点である。

もう一つ数える。

九点のうち、刈る道具が写るのは一点もない。

鎌も、鋏も、どこにもない。

写るのは、運ぶ道具ばかりである。

篩、桶、荷車、舟、袋、籠である。

六つとも、入れるか載せるための道具である。

切るための道具は、一つもない。

さらに数える。

九点のうち、季節が題か記録で示されるのは四点である。

秋が三点、夏が一点である。

残る五点では、季節は示されない。

刈り終えた野は、いつのものか決められない。

束の色と、空の色だけが手がかりである。

言えることと、言えないこと

言えるのは、収穫の絵が「刈ったあとを描く」ということである。

刈る動作は、一瞬で終わる。

そのあとに、束ねて運ぶ長い時間が続く。

絵は、その長いほうを選ぶ。

九点のうち三点が、運ぶ場面だった。

刈り終えた野を加えれば、五点になる。

言えないのは、収穫が実りだけを指すという話である。

湿地の草も、収穫された。

織物の金糸も、収穫された。

育てたものでなくても、取り出せば同じ語で呼ばれる。

最後に、はじめの一枚へ戻る。

男は束を頭の上まで持ち上げている。

腕は伸びきり、肩が張っている。

その束は、これから山へ加えられる。

山は、すでに人の背より高い。

九点を数え終えて残るのは、積み上がる高さのほうである。

刈られたものは、平らな野から立ち上がる。

束の山、荷車の桶、舟の荷、驢馬の袋。

どれも、地面より高くなる。

収穫とは、平らなものを積み上げる仕事でもある。

積み上げたものは、また下ろされる。

家に入り、乾かされ、使われる。

その先は、九点のどこにも描かれていない。

描かれるのは、野から家までのあいだだけである。

九点のうち五点が、その道の上にある。

出発と到着は、どちらも描かれない。

途中だけが、絵になる。

運ぶ時間の長さが、そのまま選ばれている。

刈る一瞬より、運ぶ半日のほうが長い。

長いほうが、絵に向いている。

止まって見えても、不自然にならない。

鎌を振る姿は、止めると不自然になる。

描かれない理由が、そこにあるのかもしれない。

九点は、その選択をそろって示している。

動きの速い一瞬を、九点とも避けている。

偶然にしては、そろいすぎている。

絵にできる動きと、できない動きがある。

九点は、その境の内側にある。

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