美術史・技法

スケッチブックの中身——ベンジャミン・ウエストとトマス・コールの素描

素描が、そのまま完成品になるとき

ここまでは「途中の紙」の話だった。しかし素描には、まったく別の使われ方もある。

エリザベス・グリーン(エベニーザー・ストーラー2世夫人)
《エリザベス・グリーン(エベニーザー・ストーラー2世夫人)》1767年ごろ。紙にパステル、画布に裏打ち。縦60.6センチ。ジョン・シングルトン・コプリー《エリザベス・グリーン(エベニーザー・ストーラー2世夫人)》メトロポリタン美術館蔵

これは下絵ではない。注文されて描かれ、額に入れられ、居間に掛けられた肖像画である。

材料はパステル。粉状の顔料を棒に固めたもので、紙にこすりつけて色を置く。

見てほしいのは、肌の質感である。頬から顎にかけての柔らかい調子は、油彩ではなかなか出ない。

胸元の白いレースと、青緑の絹の光沢。そこに桃色の薔薇が一輪。

作者はジョン・シングルトン・コプリー。独立前のボストンで、肖像画家として抜群の商売をしていた人である。

彼はパステルの材料を手に入れるため、1762年にスイスの画家へ最良のパステルを注文する手紙を書いた、と伝えられている。

なぜパステルだったのか。理由は現実的である。油彩より速く、安く仕上がるからだ。

乾燥を待つ必要がなく、塗り重ねの層も少なくて済む。顧客にとっては、油彩の肖像画より手が届きやすい。

つまりこの時代、パステルは油彩の下位互換ではなく、価格帯の違う商品だった。

エベニーザー・ストーラー2世
《エベニーザー・ストーラー2世》1767年ごろ。同じ作者による対の一枚。夫の肖像である。ジョン・シングルトン・コプリー《エベニーザー・ストーラー2世》メトロポリタン美術館蔵

同じ作者による夫の肖像が、対で残っている。夫婦一対で注文するのが、この時代の習慣だった。

二枚を並べて掛けることを前提に、顔の向きが内側へ寄せられている。

「素描」とは、何の名前なのか

最後に、分類の話をしたい。

当サイトの作品ページには「素描・ドローイング」という分類がある。これは所蔵館の記録に従っている。

では、その線引きはどこにあるのか。

シードル
《シードル》1864年ごろ。紙に油彩、画布に裏打ち。縦129.5センチ、横252.1センチ。所蔵館の記録では「素描」に分類されている。ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《シードル》メトロポリタン美術館蔵

この作品を見てほしい。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌによる、横2メートル半の大画面である。

人々が果実を摘み、絞り、樽に詰めている。色は油彩で置かれ、完成した壁画のように見える。

それでも所蔵館の記録では、分類は「素描」、名称は「ドローイング」となっている。

理由は材料である。紙に描かれているからだ。

つまり「素描」という分類は、線で描いたか、途中の紙かどうか、大きさがどうか、では決まっていない。

支持体が紙かどうか——それだけで決まっている。

これは博物館の管理上の都合である。紙の作品は光に弱く、保存と展示の条件が油彩とまったく違う。だから別の部門で管理する。

素材で分ける実務上の必要が、そのまま「素描」という言葉の意味になっている。

紙の弱さは、想像より深刻である。

十九世紀以降の紙は、製造過程で酸を含むものが多い。時間とともに酸が繊維を切り、紙は茶色く変色して脆くなる。

光にも弱い。とくに紫外線は、紙そのものと、上に置かれた顔料の両方を傷める。

だから美術館は、素描の展示期間を短く区切る。数か月出したら、数年しまう。照度も油彩より低く設定される。

素描の部屋が、絵画の部屋より暗いのはそのためである。意地悪をしているわけではない。

この制約は、私たちがいま画面越しに素描を見られることの意味も変える。実際の展示室では、めったに見られないものが多いからだ。

保存の都合で公開が難しい作品ほど、複製画像の価値は大きくなる。この事情については別のコラムでも扱っている。

作品の分類が、しばしば内容ではなく管理の都合で決まることについては、別のコラムでも触れている。

見立て——素描は、決める前の記録である

ここからは書き手の見方である。

これだけ多様な紙を並べてみると、共通するものは一つしかない。速さである。

紙は安い。準備が要らない。失敗しても捨てられる。だから、決める前の状態をそのまま残せる。

油彩は違う。地塗りをして、層を重ね、乾燥を待つ。その過程で、迷いは塗り込められて消える。

完成した油彩を見ても、画家がどこで迷ったかは分からない。分かるのは、決まったあとの結果だけだ。

素描には、決まる前が残っている。腕の角度を二通り試した線、途中でやめた肩、白いままのページ。

だから素描は、完成作より雄弁なことがある。何を決めかねていたかが見えるからだ。

もっとも、これは後世の見方でもある。当人たちは、後で人に見られるとは思っていなかった。

見られる前提のない記録が、二百年後に見られている。そこには少しの居心地の悪さもある。ただ、その居心地の悪さこそが、素描を見る面白さの一部だとも思う。

もうひとつ、素描には「速度が見える」という特徴がある。

油彩は、何日もかけて層を重ねる。だから一枚の中に、何時間分の手が入っているのか分からない。

素描は違う。線の勢い、かすれ方、途切れ方から、その線が引かれた速さがそのまま読み取れる。

冒頭のウェストの紙では、腕の輪郭が一気に引かれ、影の斜線は素早く重ねられている。数十分の仕事だろう。

コプリーのパステルは逆に、粉を何度も擦り込んで肌の調子を作っている。こちらは何時間もかかる。

同じ「紙の作品」でも、流れた時間の長さがまるで違う。

その差が画面に残っているというだけで、素描を見る意味は十分にあると思う。

暮らしへ——手を動かすと、見え方が変わる

最後に、家でできることを二つ。

ひとつ目。紙と鉛筆を用意して、手近なものを三分だけ描いてみてほしい。コップでも、鍵でも、自分の左手でもいい。

うまく描く必要はない。目的は、描けないところを知ることである。

たいてい、途中で手が止まる。取っ手がどこから生えているのか、影がどちらに落ちるのか、急に分からなくなる。

その「分からなくなった場所」こそ、画家が何本も線を重ねている場所である。

ふたつ目。素描を飾ってみること。

素描は色数が少なく、余白が多い。だから壁を圧迫しない。小さな額に入れて、目の高さより少し下に掛けると落ち着く。

ただし紙の作品は光と湿気に弱い。直射日光の当たる壁は避けたほうがよい。

飾る場所と光の条件については、こちらのコラムで扱っている。紙ものは、置き場所の影響がとりわけ大きい。

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