暮らしと名画

歌は、開いた口で示される——ドガ・ドーミエ・暁斎ほか九点

枝の上で、鳥が囀る

八点目は、画帖の一葉である。

枝で囀る鳥
河鍋暁斎《枝で囀る鳥》1887年ごろ。館の記録では、画帖の一葉・絹本着色。36.2×27.6センチ。番号は14.76.61.19。メトロポリタン美術館蔵。河鍋暁斎《枝で囀る鳥》メトロポリタン美術館蔵

縦長の画面である。

36.2×27.6センチある。

絹の地は、淡い灰褐色である。

墨が主で、色は少ない。

画面の右上から、枝が伸びる。

枝は太く、途中で折れ曲がる。

先は、下へ垂れる。

葉は数枚しかない。

葉は黒く、大きい。

左下に、細い竹の葉がある。

葉は鋭く、斜めに伸びる。

枝の中ほどに、鳥がいる。

鳥は小さい。

体は褐色である。

尾は長く、細い。

尾は、右上へ跳ね上がる。

翼は、たたまれている。

頭は、上を向く。

嘴が開く。

嘴の先は、鋭い。

開いた嘴だけで、囀りが示される。

右上に、赤い印がある。

その隣に、署名がある。

館の記録では、これは画帖の一葉である。

何枚かが組になっていた。

一枚ずつ、別の主題が描かれる。

絹に描かれているので、線が滲む。

墨の濃淡が、そのまま羽になる。

細い筆で、尾の一本ずつが引かれる。

枝の太い線とは、対照的である。

速い線と、遅い線が同じ画面にある。

鳥は小さいが、画面の中心にいる。

枝の曲がりが、そこへ視線を導く。

囀りは、聞こえない。

聞こえないものを、嘴の角度で示している。

頭の向きも、そのためだろう。

上を向けば、声は遠くへ行く。

下を向けば、餌を探す姿になる。

同じ鳥でも、角度で意味が変わる。

画家は、上向きを選んでいる。

九点のうち、人でないものが歌う唯一の一点である。

水の音が、題になる

九点目は、風景である。

水の歌
ジェローム・トンプソン《水の歌》1870年ごろ。館の記録では、油彩・カンヴァス。101.6×76.2センチ。番号は1984.252.2。メトロポリタン美術館蔵。ジェローム・B・トンプソン《水の歌》メトロポリタン美術館蔵

縦長の画面である。

101.6×76.2センチある。

画面の中央に、滝がある。

滝は高い。

水は白く、まっすぐ落ちる。

落ちた先に、水煙が立つ。

水煙は、画面の中ほどまで上がる。

その上に、虹が架かる。

虹は淡い。

左右は、岩と崖である。

岩は褐色で、影が濃い。

右のほうに、木がある。

木の葉は、赤と橙である。

秋である。

手前の右に、倒れた木がある。

その上に、人がいる。

人は小さい。

二人いるように見える。

顔も、姿勢も分かりにくい。

滝を見ているらしい。

口が開いているかは、分からない。

題には、歌の語がある。

しかし、歌っているのは水である。

館の記録には、説明がない。

分かるのは、寸法と年代だけである。

この画家は、風景の中に人を小さく置いた。

人の大きさは、画面の二十分の一もない。

滝の高さが、そのぶん強調される。

虹が架かるのは、水煙があるからである。

光が、水の粒で分かれる。

晴れた日でなければ、虹は出ない。

秋の木の色も、明るい。

音を題にしながら、描かれるのは光である。

水の音は、落ちる水の白さで示される。

見えるものに、置き換えられている。

置き換えは、この主題では避けられない。

音は、紙の上に残らない。

残るのは、水の形と、光の色だけである。

題だけが、それを音と呼んでいる。

数えてみると

九点を並べ直す。

口が開いている人がいるのは、四点である。

カフェの歌手、譜面台の人たち、ギター弾き、宮廷の女性である。

このうち、大きく開いているのは三点である。

嘴が開いているのが、一点ある。

枝の鳥である。

口が閉じているのが、一点である。

竪琴を持つ女神である。

口が見えないのが、二点である。

子守唄の女と、写本の天使である。

歌っているのが人でも鳥でもないのが、一点である。

滝の水である。

もう一つ数える。

楽器が描かれるのは、四点である。

ギター、ヴィーナ、竪琴、そして譜面台の奥の弦である。

楽譜が描かれるのは、二点である。

譜面台の紙と、写本の音符である。

場所でも分かれる。

屋内が四点、屋外が三点である。

残る二点は、場所が示されない。

技法でも数える。

油彩が四点、紙の絵が三点である。

絹の絵が一点、羊皮紙が一点である。

年でも並べる。

十五世紀が一点、十八世紀が三点である。

十九世紀が五点である。

四百年余りの幅がある。

それでも、開いた口という示し方は変わらない。

人数でも分かれる。

一人だけが五点、二人が二点である。

六人以上が一点、鳥が一羽で一点である。

一人の絵が多いのは、声が一つだからだろう。

音楽については、画面のなかの音楽で扱った。

言えることと、言えないこと

言えるのは、歌が口の形で示されるということである。

九点のうち、四点で口が開いていた。

音は描けないので、開いた口が代わりになる。

館の記録も、その約束を書いている。

口が開き、歯と舌が見えれば歌である、と。

見分けの基準が、そこまで具体的に書かれている。

鳥の一点でも、嘴が開いていた。

言えないのは、歌の絵が音の絵だという話である。

九点のうち三点では、口が見えないか閉じていた。

女神は、竪琴を持って黙っている。

子守唄の女は、顔を伏せている。

滝の一点では、歌うものが水である。

題に歌があっても、歌は聞こえない。

鳥の絵については、枝の上の鳥で扱った。

最後に、はじめの一枚へ戻る。

ドガの歌手は、口を大きく開けていた。

黒い手袋の腕が、高く上がっていた。

明るいのは、その顔と腕だけである。

九点を数え終えて残るのは、その二か所である。

歌の絵は、口と手で音の代わりをしている。

口だけでは、足りないのだろう。

手が上がり、指が開き、弦が鳴る。

動いている部分が、音の量を示す。

九点のうち、手が動いているのは五点だった。

動きが多いほど、声も大きく見える。

それが、この主題の約束である。

約束を外れるのは、水の一点だけだった。

そこでは、誰も口を開けていない。

動いているのは、落ちる水である。

題が、それを歌と呼んでいる。

呼べば、聞こえるような気がしてくる。

九点は、その手前と向こうを並べたものである。

描ける音と、描けない音の境目である。

境目に置かれるのは、いつも口と手だった。

開いた口が四点、動く手が五点である。

その二つで、九点は音を代弁していた。

代弁できないところは、題が引き受ける。

子守唄も、水の歌も、題の中で鳴っている。

画面と題が、そこで役を分けていた。

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