美術史・技法

絵は音を持たない——ファン・デル・ヘルスト・丁雲鵬・文伯仁ほか九点

鳴っていない音を、見えるものだけで示す。九点で、その方法を五つに分けたい。楽器、姿勢、聞く人、楽譜、そして題である。同じ詩を主題にした二点が、掛軸と巻子で並ぶ。楽譜が読める一点もあるが、曲はまだ特定されていない。音は記録の外にある。

音楽家
バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト《音楽家》メトロポリタン美術館蔵

楽器が、体に立てかけられている

大きな油彩である。

縦138.4センチ、横111.1センチ。

暗い背景の前に、人物が座る。

白い上着に、青い布を掛ける。

袖が広く、腕が出る。

髪は肩に垂れ、頭に飾りがある。

膝の上に、丸い胴の楽器を載せる。

首が長く、糸巻きが後ろへ折れる。

左手が、その棹を押さえる。

右手は、胴の上にある。

そして、手前の卓の上に、もう一つの楽器が横たわる。

こちらは、さらに大きい。

胴が深く、棹に糸が張られる。

赤い布が、その脇に垂れる。

卓には、紙が数枚置かれる。

背景の右に、空と雲が見える。

音楽家
バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト《音楽家》1662年。館の記録では、布に油彩。138.4×111.1センチ。番号は73.2。メトロポリタン美術館蔵。バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト《音楽家》メトロポリタン美術館蔵

館の記録の札には、五つの語が並ぶ。

楽器、女性、音楽、リュート、音楽家である。

つまり、館は複数の語でこの一点を索引している。

第九回で、札の働きに触れた。

衣を着ない体の話で書いたとおり、札があると探しやすい。

この回の九点も、そうした語で拾った。

絵は、音を持たない。

これは、当たり前のことである。

だが、音楽を主題にした絵は数多くある。

そこでは、鳴っていない音を、見えるものだけで示す。

九点を並べて、その方法を数えたい。

前の回で、手紙を扱った。

手紙の話では、書いた人が画面の外にいた。

音楽の絵では、音が画面の外にある。

楽器が、いちばんの手がかりである

九点のうち、楽器が写るのは七点である。

そして、その形で何の音かが分かる。

弦を弾く音、息を吹く音、打つ音。

楽器の種類が、音の質を示す。

これは、絵にできる情報である。

音楽家の肖像
アンドレア・アッピアーニ《音楽家の肖像》1800年ごろ。館の記録では、板に油彩。43.8×60.3センチ。額を含めて72×57×6.5センチ。番号は2011.46。クリーヴランド美術館蔵。アンドレア・アッピアーニ《音楽家の肖像》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、署名がないと書いている。

そして、描かれた人物も特定されていない。

つまり、作者も、描かれた人も、確実ではない。

にもかかわらず、題は「音楽家の肖像」である。

楽譜を持っているから、そう呼ばれている。

持ち物が、その人の職業を決めている。

第十九回で、持ち物が人の役を示すと書いた。

本を持つ話で見たのと、同じ仕組みである。

半身の肖像である。

暗い灰緑の背景に、男が座る。

黒い上着を着る。

白いシャツの襟が高く立つ。

首に、白い布を巻く。

髪は短く、額に垂れる。

顔はやや左を向き、目はこちらへ来る。

そして、手に紙を持っている。

その紙には、横線が並ぶ。

館の記録によれば、これは楽譜である。

そして、読める状態で描かれているという。

ただし、何の曲かは特定されていないと記録は書く。

これは館の記述である。

つまり、この一点では楽器がない。

代わりに、楽譜がある。

音を示すものが、楽器から紙へ移っている。

そして、その紙は読める。

第十六回で、画面の中の文字を扱った回に触れた。

楽譜も、読める記号である。

読めれば、音が特定できるはずだ。

だが、いまのところ特定されていない。

読めることと、分かることは別である。

音が、場面を動かす

サウルの前で竪琴を弾くダビデ
ルカス・ファン・レイデン《サウルの前で竪琴を弾くダビデ》1508年ごろ。館の記録では、エングレーヴィング。番号は1923.774。クリーヴランド美術館蔵。ルカス・ファン・レイデン《サウルの前で竪琴を弾くダビデ》クリーヴランド美術館蔵

館の記録には、寸法が入っていない。

九点のうち、寸法欄が空なのはこの一点だけである。

技法と、受け入れの経緯だけが書かれる。

第十七回でも、この作者の版画を見た。

二人の話ではなく、第十回である。

面の話で扱った盾の版画と、同じ人の作だ。

そちらにも、寸法がなかった。

縦長の版画である。

右に、玉座に座る人物がいる。

厚い衣を着て、頭に大きな被り物をつける。

右手に、細長い棒を持つ。

足は、片方がもう片方の上に不自然に乗る。

顔は、どこも見ていない。

その左に、若い人物が立つ。

小さな竪琴を抱え、指を弦に置く。

まわりに、数人が立つ。

槍を持つ者もいる。

背景は、彫刻の入った建物である。

上に、飾りが吊るされる。

館の記録は、この場面を説明している。

竪琴の名手が、王の前に呼ばれた。

王は、しばしば気鬱に苦しんだという。

そして館は、王の姿勢に触れている。

玉座に落ち着かず座り、足が引きつり、視線が定まらない。

これは館の記述である。

こちらで確かめられるのは、足の組み方が不自然だ、ということだ。

ここでは、音が場面を動かしている。

弾く人と、聞く人。

その二人の状態の差が、この絵の中心にある。

音は描けないが、聞いている人の姿は描ける。

第十七回で、二人の関係を数えた。

二人の話では、距離と向きが問題だった。

ここでは、片方が立ち、片方が座る。

そして、聞く人のほうが高い位置にいる。

二人の奏楽天使のいる聖家族
アルブレヒト・デューラー《二人の奏楽天使のいる聖家族》1511年。館の記録では、木版画。紙全体12.2×12.2センチ。番号は1965.538。クリーヴランド美術館蔵。アルブレヒト・デューラー《二人の奏楽天使のいる聖家族》クリーヴランド美術館蔵

九点のうち、正方形はこの一点だけである。

そして、いちばん小さい。

一辺が12.2センチしかない。

その中に、人物が七人以上入っている。

一人の高さは、四センチ足らずだ。

木版でこの密度を出すのは、容易ではない。

線を残して周りを彫るからである。

正方形の小さな版画である。

一辺が12.2センチ。

中央に、女性が座る。

膝に、幼い子を抱く。

その右に、老人が立つ。

杖を持つ。

まわりに、人物が数人集まる。

上には、太い幹の木がある。

上部に、年が刻まれる。

そして、女性の足元に、小さな姿が二つある。

翼のある子どもである。

一人は、丸い胴の楽器を抱える。

もう一人は、袋のついた笛のようなものを扱う。

館の記録は、この二人について書いている。

聖母の足元に座り、二種類の楽器を弾こうとしているという。

そして、新しい家族を祝う趣向だと記録は書く。

これは館の見解である。

こちらで確かめられるのは、二つの楽器がある、ということだ。

演奏する姿は、画面の下端にある。

小さく、目立たない。

第十九回で、犬は画面のいちばん下にいると書いた。

犬の話で見たとおり、低いものは低く置かれる。

ここでも、添え物としての演奏が下に置かれている。

息を吹く

笛を吹くパン
ルイス・セント=ゴードン《笛を吹くパン》1882年ごろ、鋳造は1914年。館の記録では、ブロンズ。109.9×30.5×48.9センチ。番号は14.119。メトロポリタン美術館蔵。ルイス・セント=ゴードン《笛を吹くパン》メトロポリタン美術館蔵

金属の像である。

高さ109.9センチ。

裸の若者が立つ。

体重は右脚にかかる。

左脚は前へ出て、膝が曲がる。

両手を顔の高さまで上げる。

その手に、細い管を持つ。

管は、口の前で水平になる。

顔は、やや上を向く。

頭に、葉と花の輪をつける。

台は、円い低い板である。

第十一回で、立つ姿勢を扱った。

立つ話では、体重を片脚に乗せる型を見た。

この一点も、同じ型である。

そして、腕を上げることで、体が細長く見える。

息を吹く楽器は、絵にするのが難しい。

音を出しているかどうかが、外から見えないからだ。

弦なら、指が弦に触れる。

打つ楽器なら、手が振り上がる。

息の場合、口と管が接しているだけである。

だから、頬が膨らむか、口を尖らせるかで示す。

この像では、口が管に当たっている。

そして、顔がやや上を向く。

息を送っているように見える。

館の記録には、二つの年がある。

原型が1882年ごろ、鋳造が1914年である。

第九回でも、この二段階の年を見た。

衣を着ない体の話で扱った彫刻も、同じ書き方だった。

楊貴妃に笛を教える明皇
長流斎《楊貴妃に笛を教える明皇》15世紀末から16世紀初め。館の記録では、掛軸。紙に墨と色。画面91×45.2センチ。全体188×63.5センチ。番号は1987.36。クリーヴランド美術館蔵。長流斎《楊貴妃に笛を教える明皇》クリーヴランド美術館蔵

掛軸である。

画面の上のほうに、岩と雲がある。

その下に、人物が三人いる。

左に、赤い衣の人物が立つ。

長い袖が、腕から垂れる。

中央に、髪を高く結った人物が立つ。

手に、細長いものを持つ。

顔を、それに近づけている。

右に、腰かけた人物がいる。

こちらは、体をひねって二人を見る。

低い柵が、右のほうにある。

背景は、紙のままである。

館の記録によれば、これは中国の皇帝とその妃の話である。

後の時代に、多くの物語と絵と詩を生んだという。

そして、その話が日本にも伝わったと記録は書く。

これは館の記述である。

この一点では、教える場面が描かれている。

つまり、まだ音が出ていないかもしれない。

構えを教わっているところである。

九点のうち、演奏していない一点である。

同じ詩を、二人が描く

琵琶行
丁雲鵬《琵琶行》1585年。館の記録では、掛幅。紙に墨と色。画面141.3×46センチ。番号は13.100.22。メトロポリタン美術館蔵。丁雲鵬《琵琶行》メトロポリタン美術館蔵

館の記録は、画面の寸法だけを書いている。

表装を含む寸法がない。

同じ館の別の掛軸には、三つの寸法があった。

第十九回で、掛軸の記録の揺れに触れた。

高さの話で見たとおり、画面と表装は別に測られる。

だが、いつも両方が書かれるとはかぎらない。

縦長の掛軸である。

画面の縦は141.3センチある。

上のほうに、川と岸が広がる。

大きな松の木が、画面の中央を占める。

幹がねじれ、枝が広がる。

その根元に、岩がある。

左上に、屋根のある小さな建物がある。

そこに、人物が数人いる。

さらに左に、舟が浮かぶ。

人物は小さい。

一人の大きさは、画面の三十分の一ほどである。

館の記録の題は、ある詩の名である。

九世紀の詩人が書いた長い詩だ。

川の上で、琵琶を弾く女性に出会う。

その話を書いたものである。

潯陽の別れ(琵琶行)
文伯仁《潯陽の別れ、琵琶行》16世紀。館の記録では、巻子。紙に墨と色。画面21×60センチ。全体27×271.3センチ。番号は1954.581。クリーヴランド美術館蔵。文伯仁《潯陽の別れ(琵琶行)》クリーヴランド美術館蔵

こちらは、横に長い一点である。

全体で271.3センチある。

館の画像には、その全体が細長く写る。

右側に、文字が並ぶ。

中央に、絵がある。

水面と、岸と、木が描かれる。

小さな舟が浮かぶ。

人物は、豆粒ほどである。

左側にも、文字がある。

館の記録は、同じ詩を主題としている。

そして、その内容も書いている。

都から遠ざけられた女性が、夜に演奏した。

その音楽と、身の上の話が、詩人の境遇に響いたという。

これは館の記述である。

第八回で、この作者の別の掛軸を見た。

足の話で扱った一点は、足を洗う場面だった。

同じ人の作である。

二点を並べたい。

同じ詩を、別の画家が別の形式で描いている。

片方は掛軸、片方は巻子。

そして、どちらも人物が極端に小さい。

音楽が主題なのに、演奏する姿はほとんど見えない。

見えるのは、川と、舟と、木である。

つまり、この二点では音を示していない。

示しているのは、場所と時間である。

音は、題と詩が担っている。

同じ詩から、二つの形式が生まれる

琵琶行の二点を、もう少し比べたい。

同じ詩を主題にしながら、形式が違う。

一つは縦長の掛軸で、画面が141.3センチある。

もう一つは横長の巻子で、全体が271.3センチある。

掛軸は、壁に掛けて一度に見る。

巻子は、手で繰りながら順に見る。

つまり、見る時間の使い方が違う。

掛軸では、上下に景色が積まれる。

川が上にあり、松が中央を占め、岩が下にある。

第十九回で、高さは上下に積んで示すと書いた。

高さの話で扱ったのは、まさにこの形式だった。

巻子では、左右に景色が伸びる。

そして、文字と絵が交互に並ぶ。

読む部分と、見る部分が分かれている。

同じ詩でも、形式が違えば時間の流れ方が変わる。

掛軸は、一つの場面を止める。

巻子は、進む順序を持つ。

第十九回で、行列は横に伸びると書いた。

行列の話で扱った巻物も、同じ形式だった。

横長の形式は、時間の経過を表しやすい。

そして、どちらの場合も、音は描かれていない。

音は、詩の中にある。

絵は、その舞台だけを用意している。

記録として撮られた演奏

アラブの楽士たち
ルドヴィコ・ウォルフガング・ハート《アラブの楽士たち》1864年。題は館の記録の表記による。館の記録では、湿板の陰画から作った鶏卵紙の印画。画面21.9×17.9センチ。番号は1995.236。クリーヴランド美術館蔵。ルドヴィコ・ウォルフガング・ハート《アラブの楽士たち》クリーヴランド美術館蔵

写真である。

背景は、葉の茂った植物である。

その前に、人物が四人ほど座る。

いずれも、頭に布を巻く。

長い衣を着ている。

一人は、細長い楽器を膝に置く。

平たい箱の形をしている。

その上に、手を置く。

もう一人は、棹のついた楽器を持つ。

三人目は、手に何かを持つ。

全員が、こちらを向いているわけではない。

顔は、それぞれ違う方向を向く。

館の記録に、重要な記述がある。

この写真は、文化の慣習を記録するために撮られたという。

そして、個人の肖像ではなく、職業や類型の肖像として作られたと書かれる。

さらに、頒布された写真集の一部だったと記録は書く。

これは館の記述である。

つまり、写された人の名前は、はじめから記録されない予定だった。

第九回でも、名前が残らない例を数えた。

ここでは、名前を残さないことが目的になっている。

こちらで確かめられるのは、楽器が三つある、ということだ。

そして、演奏中かどうかは判断できない。

この時期の写真は、露光に時間がかかる。

動けば、像がぶれる。

だから、演奏の途中を写すのは難しい。

構えた姿勢で止まっている可能性が高い。

音を示す、五つの方法

九点から読めた方法を、整理しておきたい。

一つ目は、楽器を描くことである。

これがいちばん多い。

九点のうち七点が、これを使っている。

二つ目は、演奏の姿勢を描くことだ。

指を弦に置く、口を管に当てる、腕を上げる。

その形が、いま音が出ていることを示す。

三つ目は、聞いている人を描くことである。

音そのものは描けないが、その効果は描ける。

第五回で、髪が何かを受け止める場所になると書いた。

音も、受け止める人がいれば示せる。

九点のうち、聞く人が描かれるのは三点だった。

四つ目は、楽譜を描くことである。

記号として、音を紙に置く。

これは一点だけだった。

五つ目は、題に頼ることである。

画面に音の手がかりがなくても、題が示す。

琵琶行の二点は、これにあたる。

人物は極端に小さく、楽器も見えない。

それでも、題と詩が音を担っている。

そして、五つの方法は組み合わせて使える。

冒頭の一点では、楽器と姿勢の両方が使われている。

ダビデの一点では、楽器と姿勢と聞く人が揃う。

三つ揃うと、音の場面として読みやすくなる。

楽器の大きさと、体の関係

九点の楽器と体の比も見た。

大きな楽器は、体に立てかける。

小さな楽器は、腕で抱える。

細い楽器は、手で持ち上げる。

冒頭の一点では、卓の上の楽器が人の胴ほどある。

だから、膝の上には載らない。

膝に載るのは、もう一方の小さいほうである。

竪琴の一点でも、楽器は胸の前に抱えられている。

大きさが、持ち方を決めている。

そして、持ち方が姿勢を決める。

大きな楽器を扱う人は、体をひねる。

小さな楽器なら、まっすぐ立てる。

笛を吹く一点は、まっすぐである。

腕だけが顔の高さまで上がる。

第七回で、手の位置を数えた。

手の話では、胸より上にある手が目立つと書いた。

楽器を扱う手も、たいてい胸より上にある。

九点のうち、六点でそうなっていた。

手と楽器と顔が、近い高さに集まる。

一度に読める配置になっている。

九点を並べて、数えられたこと

楽器が写るのは七点。

楽譜だけが写るのが一点。

どちらも小さすぎて読めないのが一点である。

楽器の種類も数えた。

弦を弾くものが五点。

息を吹くものが三点。

袋のついた笛が一点。

演奏している姿が読めるのは五点。

構えているだけが二点。

小さすぎて分からないのが二点である。

聞いている人が描かれるのは三点。

材料も数えた。

布が一点、板が一点、紙が四点、金属が一点、そして写真が一点。

紙の四点のうち、版画が二点、掛軸が一点、巻子が一点である。

記録に書かれていないこと

館の記録は、楽器の名を書くことがある。

九点のうち、題に楽器の名が入るのは四点だった。

竪琴、笛、そして琵琶が二点。

だが、曲名はどの記録にもない。

一点だけ、楽譜が読める状態で描かれている。

それでも、曲は特定されていない。

音は、記録の外にある。

そして、絵の外にもある。

九点のどれを見ても、何の音がしていたかは分からない。

分かるのは、楽器の形と、手の位置と、聞く人の姿だけである。

第十九回で、絵は一瞬しか描けないと書いた。

音は、時間の中にしか存在しない。

一瞬を切り取ると、音は消える。

残るのは、音を出している姿だけである。

次の回は、体そのものが音に合わせて動く場面を見る。

踊りである。

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