作品を知る

立つとは、倒れないことである——マルティーニ・エイキンズ・ヴィシュヌ像ほか九点

脚付き皿の下絵
アダム・ファン・フィアネン《脚付き皿の下絵》1625年から45年ごろ。館の記録では、黒チョークを部分的にぼかし、ペンと褐色のインク、筆と黒のインク。紙全体53.6×53.9センチ。番号は1964.100。クリーヴランド美術館蔵。アダム・ファン・フィアネン《脚付き皿の下絵》クリーヴランド美術館蔵

正方形に近い大きな紙である。

縦53.6センチ、横53.9センチ。

その中に、円い皿が描かれている。

円の中は、人物と馬と波で埋まる。

激しく動く場面らしい。

円の縁には、渦巻きと人物の飾りが巡る。

線は細く、灰色の淡彩が加えられる。

これは、金属の器を作るための下絵である。

題にある「立つ」は、脚が付いていることを指す。

脚があって、立つ皿である。

つまり、人の姿勢とは関係がない。

前の回でも、同じことが起きた。

足の話では、器の脚が足の語で拾われた。

体の部位や動作の名は、器の部分の名として使われる。

立つ像は、どこで支えられているか

彫刻の三点と、器の二点は、実際に立たなければならない。

紙の上の絵と違い、重さがある。

だから、支え方に工夫が要る。

ブロンズの一点は、葉の輪を台にしている。

その輪が、床との接地面になる。

つま先だけが着いた右脚は、ほとんど支えていない。

体重は左脚と、台を通して伝わる。

石の像は、二段の台座の上に立つ。

そして背面が平らで、壁に寄りかかる形になる。

倒れる方向が、前だけに限られる。

陶器の壺は、底が広い。

丸い胴の下が、平らに削られている。

陶器のライオンは、四本足と長方形の台を持つ。

四点で支えるので、いちばん安定している。

比べると、二本足の人物像がいちばん不利である。

そのため、彫刻では台や支えが要る。

絵にはこの問題がない。

紙の上では、重さが働かない。

だから、床を描かなくても人は立っていられる。

ドガの一点が、そのことを示している。

脚の下が消えているのに、倒れて見えない。

立つことと、正面性

九点の向きも数えた。

正面を向いて立つものが四点。

石の像、陶器の壺、素描の一点、そして写真の中央の一枚である。

斜めを向くものが三点。

横を向くものが二点。

正面を向く四点のうち、二点は左右対称だった。

信仰に関わる像である。

残る二点は、対称ではない。

体重が片脚に寄っている。

つまり、正面を向いていても、対称とはかぎらない。

この区別は、意外に大きい。

左右対称の像は、時間が止まって見える。

次の瞬間も、同じ姿勢でいるように見える。

対称でない像は、次の瞬間に動きそうに見える。

冒頭のブロンズは、まさにそう作られている。

つま先だけが着いた脚は、上げる途中にも、下ろす途中にも見える。

館の記録が「動いているかのように」と書くのは、そのことだろう。

一つの姿勢で、二つの時間を示している。

九点を並べて、数えられたこと

人が立っているのは六点である。

動物が一点、器が二点。

人の六点のうち、片脚に体重を乗せるものが三点。

左右対称に立つものが二点。

姿勢が読めないものが一点。

小さすぎて分からない北斎の一点である。

床や地面が描かれているのは、九点のうち四点だった。

残る五点には、立っている面が描かれていない。

台の上に置かれた彫刻は、台が地面の代わりになる。

紙の上の三点は、床がない。

それでも、立っていると読める。

材料も数えた。

紙が四点、金属が一点、石が一点、陶器が二点、写真が一点。

立つ人の高さ

九点の人物の高さも比べたい。

実物大に近いのは、石の像である。

高さ143.5センチ。

人の背丈より低いが、頭の上に冠がある。

台に載せれば、見上げる高さになる。

ブロンズは31センチ。

手に取れる大きさである。

素描の人物は、紙が41.2センチだから、それより小さい。

写真の人物は、一枚が8.2センチしかない。

指の先ほどの大きさで写っている。

同じ「立つ人」が、五センチから百四十センチまで散らばる。

そして、大きさによって見え方が変わる。

大きい像は、見上げることになる。

小さい像は、上から見下ろす。

見る角度が変われば、姿勢の印象も変わる。

見上げれば、足元が近く、顔が遠い。

見下ろせば、その逆になる。

館の記録は、置かれる高さを書かない。

台の高さも、書かれていない。

だから、どう見られていたかは分からない。

記録に書かれていないこと

館の記録は、姿勢を書かない。

例外は、冒頭のブロンズの一点だけだった。

そこでは、体重の掛け方まで説明されていた。

残る八点の記録は、題に「立つ」の語があるだけである。

どちらの脚に体重があるかは、書かれない。

そして、立っている人が誰かも、たいてい書かれない。

写真の一点には、括弧書きで名前らしいものがある。

館の記録は、その名を引用符でくくっている。

本名かどうか、確かでないという意味だと考えられる。

つまり、体を提供した人の名は、確かな形では残っていない。

第九回でも、同じことを書いた。

衣を着ない体の話では、名前が一つも残っていなかった。

ここでも、事情は変わらない。

作った人の名は、九点のうち八点で分かる。

写された人の名は、括弧と引用符の中にしかない。

そしてもう一つ、記録が扱わないことがある。

立っている人が、どれくらいの時間そうしていたかである。

石の像は、九百年立っている。

写真に写った人は、数秒だけ立った。

素描のためには、何十分も立ち続けたはずだ。

同じ「立つ」でも、要した時間がまるで違う。

作品は、その差を見せない。

記録も、それを書かない。

分かるのは、そこに立った姿が残っている、ということだけである。

次の回は、座るという姿勢を見る。

立つことと違い、座るには支えが要る。

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