記憶で描いた街——W・P・チャペルの小さな板紙
縦15センチのスレート紙に、消えた街が描かれている。焼きとうもろこし売り、点灯夫、家上げ、幼児の葬列。九点を並べ、記憶で描いた絵が記録になりうるかを考える。読み方の手順もあわせて示したい。材料と寸法が揃っている意味も確かめる。

二十七枚が、同じ大きさである
一枚の絵から始めたい。

小さな絵である。縦15.6センチ、横23.3センチ。葉書を二枚並べた程度の大きさだ。
画面の右に、屋根の上に小塔を載せた建物が立つ。白い壁で、正面に階段がある。
その左に道が奥へ伸び、家並みが続く。
道の中央に、黄色い荷車がある。馬が二頭繋がれ、御者が座る。
手前の左に、人物が二人。黒い服の男と、黒い衣の女性が向かい合う。
女性の足元に、白い布を掛けた容器が置かれる。
空は淡い青で、上部に桃色の雲が横に流れる。
材料が、変わっている
記録を見たい。所蔵館は、材料を「スレート紙に油彩」と書いている。
スレート紙は、粘板岩の粉を塗った厚紙である。書いて消せる文具として使われた。
つまり画布でも板でもない。手近な紙を支持体にしている。
さらに、公開されている27点すべてが、同じ材料である。
寸法もほぼ同じで、縦15.4〜15.6センチ、横23.2〜23.7センチに収まる。
制作年と、描かれた時代が違う
もう一つ、記録を確かめたい。制作年は「1870年代」である。
しかし画面の内容は、それより前の時代に見える。
服装は19世紀初めの型であり、道は舗装されていない。馬車と天秤棒が主な運搬手段である。
つまり、描かれた時期と描かれた場面のあいだに、数十年の差がある。
これは記憶にもとづく絵だと考えられる。
問い——記憶で描いた絵は、記録になるのか
ここで問いを立てたい。写真のない時代の街を、後から思い出して描く。
その絵は、どこまで信用できるのか。何が読めて、何が読めないのか。
27点を並べて確かめたい。
街の商いを、一枚ずつ描く
主題を確かめたい。

道の右側に、細い木が三本並ぶ。等間隔で、いずれも同じ高さである。
左に二階建ての家が続く。黄色い壁、緑の鎧戸、赤い屋根。
道の中央に、人物が一人。天秤棒のようなものを肩に担ぐ。
その前に犬が一匹。尾を上げ、こちらへ歩く。
奥には長い塀が続き、その向こうに建物が見える。
つまり、行商人が通りを歩く場面である。
題名が、職業を示している
題名にも注目したい。公開分の題名には、職業や出来事が並ぶ。
焼きとうもろこし売り、苺売り、点灯夫、パン屋の荷車。
いずれも、街で働く人の名である。
つまり、この一群は職業の記録として構成されている。
人物の顔ではなく、仕事の内容が主題である。
夜の場面もある
時刻の幅も見ておきたい。

夜の場面である。空は暗い灰青色で、雲が広がる。
左上に月が出ている。丸く、周囲がわずかに明るい。
画面の中央に、切妻の建物が並ぶ。壁は暗褐色で、窓に灯りが点る。
その前の道に、人物が一人。棒のようなものを持ち、街灯の下に立つ。
街灯に火を入れる作業である。
暗い画面の中で、窓の灯りと月だけが明るい。
夜を、どう描くか
技法にも触れておきたい。この画面では、全体が暗い色で塗られている。
その上に、明るい点が置かれる。窓の灯り、月、水面の反射である。
つまり、暗い地に明るい点を足す方法である。
夜の場面の作り方については、
別のコラムでも扱った。
建物を、動かす
珍しい主題も見たい。

画面の中央に、大きな板が斜めに掛かる。
その周りに人が五、六人。棒を持ち、板を支えている。
左には二階建ての家がある。黄色い壁で、階段が正面に付く。
右奥に木があり、その手前に小屋が建つ。手前に白い馬が一頭。
家を持ち上げて移動させる作業だと考えられる。
木造の建物を丸ごと動かすことは、19世紀のアメリカでは珍しくなかった。
記録されにくい作業
主題の性格を考えたい。家を動かす作業は、日常の風景ではない。
しかし、記念碑になるような出来事でもない。
つまり、通常なら記録に残りにくい。
その中間の出来事が、この一群には多く含まれている。
港の場面
場所の幅も見ておきたい。

水辺の場面である。手前に水が広がり、青緑色に塗られる。
中央に木の桟橋が突き出す。杭が並び、階段が水面へ下りる。
左に帆船が一隻。白い帆を張り、舳先を右へ向ける。
小舟が三艘、水面に散る。人が乗り、櫂を動かす。
奥には建物が並ぶ。二階建ての家と、長い倉庫のような建物である。
空は淡く、上部が青、下部が桃色である。
葬列も、描かれている
出来事の幅を見たい。

道に沿って、人の列が続く。
前方には白い衣の子どもが並ぶ。十人以上いる。
その後ろに、黒い衣の大人が続く。列は画面の右端まで伸びる。
左に建物が並び、手前に柵がある。中央に大きな木が二本立つ。
つまり、幼い子どもの葬列である。
悲しみを、描かない
扱い方に触れておきたい。この画面には、泣く人も、うずくまる人もいない。
列は整然と進む。表情は描かれていない。
つまり、感情ではなく、行事の形が記録されている。
葬列の順序、参加者の服装、通った道。それらが情報として残る。
街路の商いが、続く
もう一点、街の場面を見たい。

道の右に、馬車が止まる。馬が一頭繋がれ、荷台に樽のような荷が積まれる。
御者が荷台の脇に立つ。
道の左に、黄色い壁の店がある。窓に看板らしきものが掛かる。
手前に人物が一人。歩いてくる。その足元に犬が一匹。
背景に木が数本と、家並みが続く。
犬が、繰り返し出てくる
細部の共通点にも触れたい。公開分の複数の画面に、犬が描かれている。
苺売りの場面、パン屋の荷車の場面。いずれも小さな犬である。
つまり、街の景色に犬がいることが前提になっている。
こうした細部は、大きな出来事の記録には残らない。
下水の工事
もう一点、街路の場面を見たい。

道の両側に、家が二列に並ぶ。三階建ての建物もある。
左手前の建物に、看板の文字が見える。人名らしきものが読める。
道の中央に、馬車が一台。荷を積み、右へ進む。
手前に人物が二人。左に一人、右に一人。
道の表面には、溝の線が描かれている。
つまり、下水の設備が主題である。
都市の設備を、絵にする
主題の選び方をもう一度考えたい。下水、街灯、渡船場、水のポンプ。
いずれも、都市の生活を支える設備である。
つまりこの一群は、街の仕組みを記録している。
美しい眺めを描いた絵ではない。使われている街を描いた絵である。
水を汲む場所
もう一点を見たい。

画面の左に、切妻の家が三、四軒並ぶ。壁は黄土色と灰色である。
手前の道に、馬が一頭。青い樽を載せた荷車を引く。
その脇に人物が一人、立つ。
右には木が二本と、低い建物がある。
道の中央に、細い柱のようなものが立つ。ポンプだと考えられる。
題名の「茶水」は、茶を淹れるのに適した水を指す呼び名である。
水を、買っていた時代
この主題の背景も補いたい。都市に水道が普及する前、水は運ばれて売られていた。
質のよい水源から汲み、樽で市中へ運ぶ。
つまり水は商品だった。
その仕組みは、現在の都市の暮らしからは想像しにくい。
絵が残っていなければ、風景として思い浮かべることは難しい。
記憶は、どこまで正確か
ここで、最初の問いに戻りたい。この一群は、数十年前の記憶にもとづく。
つまり、細部が正確とは限らない。建物の位置や、看板の文字が違っている可能性がある。
一方、大きな構造は残りやすい。道の幅、建物の階数、人の運び方。
記憶は細部を落とし、型を残す。
記録として使うときの手順
読み方の手順を書いておきたい。まず、絵から読める要素を挙げる。
次に、他の資料と突き合わせる。地図、新聞、市の記録などである。
一致する部分は、記録として使える。一致しない部分は、記憶の変形として扱う。
絵だけで断定しない。この手順は、他の記録画にも当てはまる。
記録という言葉の危うさは、
別のコラムで扱った。
二十七枚が揃っている意味
数についても考えたい。同じ寸法、同じ材料、同じ主題系統。
つまり、一つの企画として作られている。
一枚ずつなら、ただの小さな絵である。しかし揃っていることで、
街の生活を横断する記録になる。
組物としての価値は、揃っていることに依存する。
組が崩れる問題は、別のコラムでも扱った。
誰が、何のために描いたのか
作者について確かめたい。所蔵館の記録には、生没年が書かれていない。
つまり、経歴がほとんど分かっていない。
分かるのは、1870年代にこの一群を描いたという事実だけである。
売るために描いたのか、記録のために描いたのかも書かれていない。
分からないことは、分からないと書いておきたい。
見立て——小さな紙が、都市の記録になる
ここまでを整理したい。一枚の大きさは、縦15センチ、横23センチ。
材料は、文具として使われた紙である。
つまり、費用も手間も小さい。誰にでも始められる規模である。
しかし27枚揃うと、消えた街の姿が浮かんでくる。
記録の価値は、一枚の質ではなく、揃っていることで決まる場合がある。
名前のない人々
描かれた人についても書いておきたい。この一群には、多くの人が描かれる。
しかし、名前は一つも記録されていない。
売り子、御者、点灯夫、葬列の参列者。いずれも職業と役割だけで示される。
名前が残る人と、残らない人がいる。その非対称は、
別のコラムでも扱った。
暮らしへ——消える前に、撮っておく
家でできることを書いておきたい。近所で、なくなりそうな物を撮ってみてほしい。
古い看板、公衆電話、郵便受け、路地の階段。
いま撮れば、二十年後には記録になる。
チャペルがしたのは、記憶からの復元だった。写真があれば、その手間は要らない。
群として見ると、街が見える
最後に、見方をまとめておきたい。27枚を主題で分けてみる。
商い、設備、行事、水辺。四つの群になる。
一枚ずつでは断片だが、並べると街の断面が見える。
公開画像は、そのための道具である。同じ寸法の絵を並べる作業は、画面の上でできる。
そして、並べた結果は書き留めておきたい。主題の分類は、忘れやすい。
一行の記録が、次に見るときの足場になる。
スレート紙という支持体
材料についてもう少し補いたい。スレート紙は、粘板岩の粉を塗った厚紙である。
石筆で書き、布で拭えば消える。学校や商店で使われた。
つまり、絵のための紙ではない。
その表面に油彩を塗ると、絵具が沈みにくい。下地が吸わないためである。
材料の選択には、手近にあったという事情が働いている。
二十七枚の統一
寸法の一致も、もう一度確かめたい。縦は15.4〜15.6センチ、横は23.2〜23.7センチ。
つまり、同じ大きさに切った紙を使っている。
一枚の大きな紙を分割したか、既製の寸法をそのまま使ったか。
いずれにせよ、規格を決めてから描き始めている。
遠近の作り方
構図についても見ておきたい。多くの画面で、道が奥へ細くなる。
建物の屋根の線も、奥へ向かって下がる。
つまり、透視図法の原則が使われている。
ただし正確ではない。線の収束点が一つに揃わない画面もある。
規則を知りつつ、厳密には従っていない。
色の使い方
色も確かめたい。空は淡い青と桃色、道は褐色、建物は黄土色と白。
つまり、色数は限られている。
その中で、人物の服にだけ黒や赤が置かれる。
小さな色の点が、視線を導いている。
何を、描かなかったか
主題の選択にも触れておきたい。公開分には、貧困や事故の場面はほとんどない。
描かれるのは、働く人と、日常の行事である。
つまり、街の暗い面は選ばれていない。
記憶で描く場合、思い出したい光景が選ばれやすい。
その偏りは、記録として使うときに考慮したい。
誰が、この一群を守ったか
来歴も考えたい。個人が趣味で描いた小さな絵が、まとまって残るのは珍しい。
誰かが束ねて保管し、次の世代へ渡している。
つまり、家族か収集家の手が入っている。
残ったこと自体が、偶然ではない。
街は、いつ変わったのか
背景も補いたい。19世紀のニューヨークは、人口が急増した。
木造の低い建物が、石造りの高い建物に置き換わっていく。
つまり、描かれた街並みは、描かれた時点ですでに消えかけていた。
だからこそ、記録として描かれたのだろう。
現在との照合
読み方の手順も書いておきたい。まず、描かれた場所の名を確かめる。
次に、当時の地図と照らす。
そして、いまの地図と比べる。
三つを並べれば、何が残り、何が消えたかが分かる。
絵は、その照合の出発点になる。
版画との違い
同時代の記録画とも比べておきたい。当時、街の様子は版画としても出版されていた。
版画は複製され、多くの人が見る。だから、公式の見え方に近づく。
一方、この一群は一点ずつの油彩である。売るために作られたかどうかも分からない。
つまり、公的な記録ではなく私的な記録に近い。
同じ街を扱っても、媒体が違えば内容も変わる。
建物の高さ
細部からも読める。画面の建物は、多くが二階建てか三階建てである。
高い建物はほとんどない。
つまり、描かれた時期のニューヨークは低い街だった。
その後の高層化を思えば、この低さ自体が記録である。
道の舗装
もう一つ、地面を見たい。多くの画面で、道は土か砂利である。
石畳が描かれる場面もあるが、多くはない。
つまり、舗装が進む前の街である。
雨が降れば泥になり、荷車の轍が残る。生活の条件が画面に出ている。
記憶の絵を、どう位置づけるか
もう一点、整理しておきたい。記憶で描いた絵は、目撃の記録ではない。
しかし、想像だけで作られたものでもない。
実際に見た人が、数十年後に描いている。細部は薄れ、印象は残る。
つまり、両者の中間にある。
そして中間だからこそ、他の資料と突き合わせる価値がある。
一枚あたりの手間
制作の速さも考えたい。縦15センチ、横23センチの画面に、
建物と人と馬車が収まる。
細部は簡略で、筆の数も多くない。
つまり、一枚を短時間で仕上げられる。
だから二十七枚、あるいはそれ以上の数が作れた。
規模の小ささが、数を可能にしている。
通りの名は、書かれていない
記録の限界も書いておきたい。題名には、職業や出来事の名が入る。
しかし、通りの名や番地は記されていない。
つまり、場所の特定は難しい。
もし通りの名が書かれていれば、地図と照合できた。
一行の情報があるかないかで、資料としての強さが変わる。
小さな絵の、扱われ方
最後に、寸法の意味をもう一度考えたい。縦15センチの絵は、額に入れても小さい。
壁に掛けても目立たない。手に取って見る大きさである。
つまり、鑑賞よりも保管に向いた形である。
二十七枚を箱に収めれば、場所も取らない。
残った理由の一つは、この扱いやすさかもしれない。
記録として使う前に
もう一点、注意を書いておきたい。細部を資料として使うときは、
他の記録と照合する必要がある。
看板の文字、建物の階数、道の幅。いずれも記憶の変形を含みうる。
一枚の絵を根拠に断定しないことが、読み方の基本である。
そして、気づいたことは書き留めておきたい。街の細部は、見た直後でも忘れる。
建物の階数、屋根の形、看板の位置。数字と形を書いておけば、あとで比べられる。
一行の記録が、次に見るときの足場になる。
記録は、あとから読む自分のために残すものである。
細かく書く必要はない。日付と、気づいた一点だけでよい。
そして次に見るときは、その一行から始めればよい。
消えた街を扱う資料では、この積み重ねがとくに効く。
そして、地図を横に置いて見るとよい。場所が分かれば、読める内容が増える。
消えた景色を扱う記録は、あとから足せない。気づいたその日に書くしかない。
見えているのは、一人の記憶を通した街である。その前提を書き添えておきたい。



