美術史・技法

足の語で拾うと、六点は人の足ではなかった——文伯仁・ピサロ・タルボットほか九点

足は、なぜ描かれないのか

九点を見て、あらためて思ったことがある。

足は、絵の中でほとんど描かれない。

理由は、いくつも考えられる。

一つは、隠れやすいことである。

衣の裾が、足を覆う。

長い衣なら、足は完全に見えなくなる。

もう一つは、画面の切り方である。

前に扱ったとおり、肖像は胸や腰で切られる。

切る位置の話で数えたとおり、

全身が入る絵は少ない。

全身が入らなければ、足も入らない。

三つ目は、位置である。

足は画面の下端に来る。

下端は、額や台紙で隠れることがある。

掛軸なら、表装との境目に近い。

四つ目は、大事さの問題かもしれない。

顔と手は、その人が何者かを示す。

足は、そこまで語らない。

履物を履いていれば、身分は分かる。

だが、裸足では分からない。

九点のうち、足が主題になった三点は、いずれも足を洗っていた。

つまり、足そのものが行為の中心にあるときだけ、足は描かれる。

そうでなければ、衣の下に隠れる。

水と足は、なぜ結びつくのか

足を洗う三点を、もう一度並べたい。

中国の二点は、同じ詩の型を背景に持つ。

館の記録が、その句を引いている。

水が澄めば冠の紐を洗い、濁れば足を洗う。

つまり、洗う場所の選び方が、生き方の比喩になる。

そこでは、足を洗うことは退くことを意味する。

ピサロの一点には、そうした説明がない。

館の記録も、詩には触れない。

描かれているのは、日常の一場面に見える。

暑い日に、川で足を冷やす。

それだけの絵として読める。

同じ行為が、片方では思想の型になり、片方では日常になる。

その差は、記録に書かれた説明の有無から来ている。

もし中国の二点に館の説明がなければ、こちらも日常の絵に見えたはずだ。

読み方は、記録によって作られる部分がある。

これは、注意しておきたいことである。

館の説明は根拠を持つが、それを外して画像だけを見ると、印象は変わる。

九点を見るとき、その二つを分けておきたい。

九点を並べて、数えられたこと

人の足が写るのは三点。

いずれも、足を洗う場面である。

動物の足が写るのは一点。

器の脚が写るのは一点。

題の足が場所を指すのは三点。

麓、たもと、裾野である。

題の足が人名の一部なのは一点。

つまり、九点のうち六点は、人の足と関係がない。

これは、語で拾ったことの結果である。

日本語でも、英語でも、足の語は場所を指す。

山の足、橋の足、木の足。

体の部位の名が、位置を示す言葉として使われる。

同じことが、器にも起きる。

下で支える部分を、脚と呼ぶ。

語の広がりを、どう扱うか

この回の九点は、選び方の限界をよく示している。

記録の中の足の語で拾った。

すると、六点が人の足と無関係だった。

これを失敗とみなすこともできる。

だが、そうは考えなかった。

理由は二つある。

一つは、この散らばり自体が事実だからである。

館の記録の中で、足の語はこれだけ広く使われている。

体の部位、山の裾、橋のたもと、木の根元、器の脚、人名。

六種類の意味が、九点の中に出た。

もう一つは、比べる材料になるからである。

人の足の三点だけを並べても、足の少なさは分からない。

外れの六点があってはじめて、足がどれだけ描かれないかが見える。

第十九回でも、同じことが起きた。

語で絞ると、必ず外れが混じる。

その外れを削るか、残すかは、書き手の選択である。

削れば、話はきれいになる。

残せば、記録の性質が見える。

この回では、残すほうを選んだ。

九点の並べ方も、それに合わせている。

はじめの三点で人の足を見て、あとの六点で語の広がりを見る。

読む順序が、そのまま検証の順序になっている。

大きさの幅

九点の寸法も並べておきたい。

いちばん小さいのは、大理石の器で10.7センチ。

写真の画面が8.4×10.4センチで、これも小さい。

いちばん大きいのは、油彩の198.6センチ。

掛軸の画面が170.2センチで、これに次ぐ。

二十倍近い幅がある。

そして、大きいほうの二点は、どちらも縦長である。

掛軸と、人物の全身像。

縦に長い画面は、上下に情報を積む。

第十九回で、高さの示し方を扱った。

高さの話で書いたとおり、縦長の画面では上へ積むしかない。

掛軸の一点では、下に岩、中ほどに川と舟、上に山が並ぶ。

足を洗う人物は、その中ほどにいる。

上下の真ん中である。

もし人物を下端に置けば、水面より下になってしまう。

位置は、主題の側から決まっている。

記録に書かれていないこと

館の記録は、足の形を書かない。

裸足か、履物をつけているかも書かない。

九点のうち、履物が描かれているのは一点だけだった。

残る二点の人物は、足を水に入れている。

つまり、裸足である。

そして、そのことは記録に書かれていない。

題が「足を洗う」であれば、裸足だと推測できる。

だが、記録が明言しているわけではない。

もう一つ、数えて気づいたことがある。

足を洗う三点は、いずれも水辺にある。

そして三点とも、水が画面の下半分にある。

足は、体のいちばん下にある部位である。

だから、水に触れるのは足からになる。

画面の上下と、体の上下が対応している。

第十九回で、犬は画面のいちばん下にいると書いた。

犬の話と同じ理屈が、足にも当てはまる。

低いところにあるものは、低いところに描かれる。

そして、履物についても数えておきたい。

九点のうち、履物が見えるのは一点だけだった。

膝から下を覆う長い履物である。

館の記録は、その素材にも形にも触れていない。

書かれているのは、布に油彩、という技法だけである。

履物は、その人の暮らしを示す材料になる。

どこを歩くか、何を踏むかで、形が決まるからだ。

だが、記録はそこを扱わない。

衣服の記述は、館によっては詳しく書かれる。

第二回で見た肖像では、襟の刺繍まで記録にあった。

同じ館でも、作品によって書く量が違う。

足元は、書かれないほうに寄っている。

次の回は、衣を着ていない体を見る。

そこでは、足も含めて全身が現れる。

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