暮らしと名画

足は、地面との接点である——ドガ・歌麿・ムリーリョほか九点

皿にも、足がある

赤絵式の皿である。

直径は38.3センチ。

高さは7.9センチしかない。

平たく、大きい。

中央に、浅いくぼみがある。

まわりの面に、海のものが描かれる。

蛸が、二匹いる。

脚が、渦を巻く。

魚が、何匹も泳ぐ。

腹が白く、背が黒い。

貝も、いくつか描かれる。

地は、黒い。

図は、赤い地の色で残される。

縁には、波の文様が回る。

皿の下に、短い足がある。

その足の直径は16センチ。

赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝
アステアス/ピュトンの工房《赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝》紀元前340年から330年のあいだ。館の記録では、陶。直径38.3センチ、高台の直径16センチ。番号は1985.50。クリーヴランド美術館蔵。アステアス/ピュトンの工房《赤絵式魚皿 蛸、鯔、鯛、貝》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この種の皿を説明する。

もとは雅典で作られたが、南伊太利亜と西西里で広まった。

紀元前四世紀のことである。

どれも、短い足と、中央の小さなくぼみを持つ。

この工房のものは、最も大きく、最も飾りが多い。

館はさらに、描かれた魚にも触れる。

考古学者が、種を同定してきた。

その多くは、いまも地中海にいて、食べられている。

ここに挙がるのは、蛸、鯔、鯛、そして貝である。

足という語は、器物の底の高い部分を指す。

日本語では、高台と言う。

高い台である。

つまり、日本語では足と呼ばない。

足と呼ぶか、台と呼ぶか。

どちらも、立たせる部分であることは同じである。

足が、人の名になる

油彩である。

73.7×60.9センチ。

男の、胸から上がある。

顔は、正面をやや外れる。

髪は、頭の上で束ねられる。

束に、羽根が二本立つ。

顔に、赤と黒の線が引かれる。

線は、頬から顎へ下りる。

首に、飾りがいくつも下がる。

肩に、毛皮が掛かる。

胸は、露わである。

背景は、薄い青である。

何も描かれていない。

画面には、足がない。

胸から上しか描かれていないからである。

ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)
ジョージ・カトリン《ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)》1836年。館の記録では、油彩・カンヴァス。73.7×60.9センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ジョージ・カトリン《ケイークアダクームィーギシュクム(足で地を試す者)》スミソニアン協会蔵

この一枚を足の九点に入れたのは、題のためである。

人の名に、足の語が入っている。

足で地を試す者、という意味だと館は記す。

前の二回でも、同じ画家の一枚を見た。

肩の回では、傷ついた熊の肩という名だった。

膝の回では、膝を洗う女という名だった。

つまり、この画家の残した名の一群には、体の部分が多い。

音を写した名と、意味の訳が並ぶ形式である。

だから体の部分を探すと、毎回この一群が出てくる。

三回続けて出てきたのは、偶然ではない。

在庫のかたよりが、そのまま検索の結果になっている。

そのことを、三回目で書いておく。

数えてみると

九点を数え直す。

人の足が画面に写っているのは、五点である。

踊り子、習作、炬燵の女、聖母、そして陶淵明の履物の先。

厳しく数えれば、四点になる。

履物の先だけでは、足とは言いにくい。

足の語が場所を指しているのが、三点。

木の根元、崖の下、皿の高台である。

名の中にあるのが、一点。

写っている足を、さらに見る。

裸足が、三点。

そのうち二点は、隠すつもりのない場所ではない。

炬燵の女は、頭を隠したから足が出た。

聖母の足は、月の上に載るために出ている。

見せるために描かれた足は、踊り子と習作の二点だけである。

どちらも、動きを調べるための絵である。

足が主題になるのは、動きを扱うときだけらしい。

止まっている人の足は、衣に隠れる。

裾が長ければ、足はまったく見えない。

九点のうち、裾の長い衣が四点あった。

そのすべてで、足は隠れているか、先だけが出ている。

衣の長さが、足の見える量を決めている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、足が地面との接点だということである。

だから、立っているものには足があることになる。

木にも、崖にも、皿にも。

いちばん下の、接している部分が足である。

人の足が特別なのは、そこが見えないことである。

自分の足の裏は、体を折らないと見えない。

見えないから、調べるための絵が要る。

踊り子の像は、その調べの姿そのものだった。

言えないことも、いくつかある。

まず、足の語で探すと、風景が大量に出てくる。

木の根元、崖の下、山の裾。

英語の記録では、すべて足である。

だから、この九点のうち三点は風景の一部にすぎない。

それを並べるかどうかは、こちらの判断である。

次に、履物のある足は、足として数えにくい。

今回も、履物の先だけの一点があった。

日本の絵では、素足が出るほうがめずらしい。

だから、東洋の作品では足の記録が少なくなる。

最後に、同じ画家の名の一群が、三回続けて出てきた。

体の部分を主題にすると、必ずそこへ行き着く。

行き着くこと自体が、在庫の形を示している。

数えているのは、絵のほうだけではない。

記録の作られ方も、いっしょに数えている。

九点のうち、館の説明が長いのは五点だった。

いずれも、クリーヴランドの記録である。

札しかない記録では、足の語は題にしか出てこない。

だから題に足が入る作品ばかりが集まる。

崖下や根元が三点も入ったのは、そのためである。

説明の文が長い館ほど、比喩の足まで拾える。

拾えるが、そのぶん偏る。

そして、足の裏を見るには、体を折るしかない。

九点のうち、それをしているのは一点だけだった。

その一点だけが、彫刻である。

絵は、平らな面に描く。

足の裏は、平らな面に向きにくい。

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