漁の絵に、魚はいない——歌麿・北斎・クールベほか九点
銅の像が、糸を垂らす
八点目は、彫刻である。

立像である。
全体は50.1×16.5×14.4センチある。
高さは、腕の長さほどである。
台は円く、低い。
その上に、若い女が立つ。
体は正面を向く。
顔は、やや左を向く。
髪は長く、背に垂れる。
腰から下に、布が巻かれる。
布は網のように、粗く見える。
上半身は、裸である。
右腕が、まっすぐ上へ上がる。
指先に、細い糸がある。
糸は、頭の上から垂れる。
先には、小さな錘がある。
左手は、腰の布を押さえる。
体は、わずかに傾く。
館の記録では、題は漁の寓意である。
寓意とは、たとえのことである。
つまり、この像は漁そのものではない。
漁という考えを、人の形にしたものである。
魚は、どこにもいない。
糸と、錘と、網の布だけがある。
道具が、漁の代わりに置かれる。
この形は、古い彫刻の型に近い。
若い体に、道具を持たせる。
持たせた道具が、その像の名になる。
館の記録では、材はブロンズである。
表面は褐色で、光が滑らかに回る。
布の網目にも、影が入る。
金属で、糸の細さまで作られている。
細い糸は、折れやすい部分でもある。
残っていること自体が、珍しい。
題にだけ、漁がある
九点目は、素描である。

縦長の紙である。
紙は46.6×32.8センチある。
紙は、緑がかった灰色である。
画面には、細い格子の線が引かれる。
縦横に、等間隔である。
これは、拡大するための目盛りである。
画面の中央に、女が一人いる。
女は座っている。
裸である。
顔は下を向く。
目は閉じているように見える。
髪は短く、まとめられる。
右腕は、下へ伸びる。
手は開き、指が離れる。
左腕は、膝の上にある。
脚は前へ投げ出される。
足の裏が、こちらを向く。
体は白いチョークで、丸みが付けられる。
背景は、灰色のままである。
館の記録では、これは大きな絵のための習作である。
その絵の題は「漁夫の家族」という。
つまり、この女は漁師の妻である。
しかし画面には、海も舟も網もない。
館の記録では、完成した絵では布を着せたという。
裸なのは、この習作だけである。
漁は、題の中にしかない。
館の記録は、この絵の後の変化も書く。
本画では、肩と腕と胸の一部だけを出した。
残りは、布で覆われた。
また、この姿勢はさらに古い絵から来ている。
夏を主題にした大きな絵があった。
その中の一人が、もとになっている。
同じ形が、絵から絵へ移っていく。
館は、この習作に残る自然さにも触れる。
右の腕と手、鎖骨と頬骨である。
後の絵では、そこが滑らかにされた。
習作のほうが、体に近い。
数えてみると
九点を並べ直す。
漁の動作をしている人がいるのは、四点である。
竿を構える少年、網を担ぐ男、鵜を操る二人、網を引く二人である。
このうち、魚が描かれているのは一点もない。
水に入っている人がいるのは、三点である。
岩屋の女たちと、綴織の男たちと、少年の足元である。
舟が描かれているのは、四点である。
巻物の二艘、浜の一艘、港の十数艘である。
人がいない絵は、一点である。
浜に乗り上げた舟だけの絵である。
もう一つ数える。
九点のうち、館の記録が題に漁の語を置くのは、八点である。
置かないのは、一点だけである。
北斎の掛幅は、題が漁師である。
人の名で、行いの名ではない。
さらに数える。
九点のうち、魚が一匹でも見えるのは、一点もない。
漁の絵に、魚はいなかった。
技法でも数える。
油彩が三点、紙の絵が三点である。
織物が一点、彫刻が一点、版画が一点である。
九点のうち、水が描かれるのは七点である。
描かれないのは、彫刻と習作の二点だけである。
その二点は、どちらも人の体が主である。
水を描かない漁の絵が、二点あることになる。
人の数でも差がある。
二十人を超えるのが二点、十数人が一点である。
一人だけが三点、四人が一点である。
誰もいないのが一点、二人が一点である。
遠くに浮かぶ舟については、遠くの舟で扱った。
言えることと、言えないこと
言えるのは、漁の絵が待つ姿を描くということである。
竿を構える少年は、まだ釣っていない。
網を担ぐ男は、まだ投げていない。
鵜は水に入ったばかりである。
網は引かれている途中である。
どれも、結果の前で止まっている。
魚が一匹もいないのは、そのためだろう。
捕れた瞬間は、絵にならない。
言えないのは、漁の絵が労働を描くという話である。
九点のうち、二点は舟だけだった。
一点は寓意の像で、一点は習作の裸像である。
岩屋の一点には、遊びに来た人が混ざる。
綴織の一点では、貴族が橋の上から指をさす。
漁は、そこでは見られる側にある。
働く人の絵については、働く人びとで扱った。
最後に、はじめの一枚へ戻る。
少年の竿は、画面の右端まで伸びていた。
糸は水の上で、途中から見えなくなる。
その先に何があるかは、描かれていない。
九点を数え終えて残るのは、その見えない先である。
水の中は、どの一点にも描かれなかった。
漁の絵が写すのは、いつも水の上だけである。
水面は、光を返して中を隠す。
隠れているところに、魚がいる。
描けない場所に、目的だけがある。
九点は、その手前で揃って止まっていた。
止まったまま、竿も網も構えられている。
漁の絵とは、構えの絵のことである。
構えは、まだ何も起きていない状態である。
九点は、その状態を選んで残している。
結果を描かないことが、漁の絵の型なのだろう。
少なくとも、この九点ではそうなっている。
捕れたかどうかは、絵の外の話である。
見る人には、その先が渡されない。
渡されないまま、九点は並んでいる。









