墨一色から始まった——菱川師宣の墨摺絵
初期の浮世絵には色がない。菱川師宣の墨摺絵は、線の太さと黒い面の置き方だけで人と町を描き分けた。色は買った人が筆で塗った。公開作品六点で、色を持たない版画がどう見せていたかを確かめる。墨だけで奥行きを作る手つきを、細部から追いかけたい。

色が、ひとつも無い
一枚の版画から始めたい。

横長の紙である。縦25.7センチ、横38.6センチ。
上半分に、二階建ての家並みが斜めに描かれている。
軒に幟のような布が下がり、その下を人が歩いている。
左に女性が四、五人。裾の長い着物で、髪を結い上げている。
中央に大きな笠をかぶった人物。丸い荷を担いでいる。
右に走る男。腰に何かを差している。
下半分は屋根と塀で、左端に梅の枝が伸びる。
そして、色が無い。
黒い線と、髪や帯の黒い面だけで描かれている。
紙は経年で薄い茶色になっているが、これは色ではない。
まず、この一枚が何を写しているかを確かめたい。
題名にある揚屋町は、江戸の吉原にあった一区画の名である。
軒に下がる布は、店の目印にあたる。
歩いているのは、客と、店の者と、物売りである。
つまりこれは、繁華街の通りを描いた絵である。
現代の言葉に置き換えれば、街の様子を伝える一枚ということになる。
通りの絵は、何のために作られたか
もう少し画面を見ておきたい。
建物は斜め上から見下ろす形で描かれている。屋根の面が広く見える角度である。
この視点だと、通りと建物の中を同時に示せる。
人物の背の高さは、画面のどこにいても変わらない。
奥に行っても人が小さくならないため、全員が同じ大きさで並ぶ。
言い換えれば、これは地図に近い絵である。
どこに何があり、誰が歩いているかを一望させる作りになっている。
浮世絵は、墨一色から始まった
いまの私たちは、浮世絵を色の版画として思い浮かべる。
しかし最初の百年は、そうではなかった。
所蔵館の技法欄には、この一点を「墨摺絵」と記している。
墨の版だけで摺った絵、という意味である。
版木は一枚。色板も見当も要らない。
多色摺の技術が現れるのは1760年代である。師宣より八十年ほど後になる。
錦絵の始まりについては別のコラムで扱った。
描いたのは、誰か
菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)は17世紀の絵師である。
生年は分かっていない。没年は1694年とされる。
安房(現在の千葉県南部)の刺繍の家に生まれたと伝えられる。
刺繍の下絵は、輪郭と模様を線で示す仕事である。
版下絵と作りが近い。この出自が線の性質に関わっているという説明はよく見かける。
刺繍では、糸の太さと向きで面を作る。塗るのではなく、線を並べて色面を作る仕事である。
版画の線の使い方と、考え方が近い。
ただし本人の言葉として残る記録は確認できていない。伝えられている来歴として書いておく。
江戸に出て絵を学び、絵入本の挿絵から一枚絵へ進んだ。
のちに「浮世絵の祖」と呼ばれるのは、この分野を職業として成立させたためである。
当サイトでは、この画家の作品を14点公開している。
色は、あとから筆で塗られた
とはいえ、この時代の版画がすべて白黒だったわけではない。

同じ画家の、ほぼ同じ主題である。
こちらには色がある。屋根の瓦は緑、暖簾は朱、柱は黄土色。
女性の着物にも赤が入っている。
しかし、よく見てほしい。
色は線の内側に収まっていない。緑の瓦は輪郭からわずかにずれている。
朱の面には筆の跡が残り、濃さが一定でない。
摺ったのではなく、筆で塗ったからである。
この時期の色は、版元や絵草紙屋が人手で加えていた。
摺るのは墨だけ。色は手作業の後付けだった。
塗る色にも種類があった。
鉛を使った朱色、紅花から採った紅、膠で艶を出した黒。
呼び名も分かれていて、丹絵、紅絵、漆絵などと区別される。
一枚ずつ人が塗るため、同じ図でも仕上がりが違う。
さらに厄介なことがある。
彩色が同時代のものか、後の時代に加えられたものかは、簡単には決まらない。
売るために古い墨摺絵へ色を足した例も知られている。
だから「この色を画家が指定した」とは言えない。所蔵館の記録も技法までしか書いていない。
本稿では、色は後から足された層として扱う。
問い——色がないとき、絵は何で見せるのか
ここから本稿の問いに入りたい。
墨一色の版画は、色の代わりに何を使っていたのか。
答えを先に書くと、三つある。
線の太さ、黒い面の配置、そして画面の分け方である。
もう一つ、値段の話も関わってくる。
版木一枚で摺れる絵は、安く作れる。色板を彫る手間も、摺り重ねる手間も要らない。
墨摺絵は、絵草紙屋の店先に並ぶ手頃な商品だった。
当時の値段は記録が少ないが、そば一杯から数杯ぶんの範囲で語られることが多い。
確かな数字として示せる資料は確認できていないため、目安として書いておく。
高価な肉筆画とは別の市場が、ここで生まれている。
購買層も変わる。武家や寺社ではなく、町の人が買う商品になった。
何を描くかは、その人たちが見たいものによって決まる。
だから題材は、芝居、遊廓、名所、物語になった。
絵の主題は、市場の側から決められている。
摺る枚数も市場が決めた。売れる図は追加で摺られ、版木が摩耗していく。
同じ図でも、初摺と後摺で線の太さが変わる。
摩耗した版木は線が太くなり、細部が潰れる。
古い版画を比べるときに年代を推定する手がかりの一つが、この線の状態である。
ただし摺りの時期を断定するには、紙と彩色も併せて見る必要がある。
安く早く作るという条件が、絵の作りを決めた面もある。
以下、順に見ていきたい。
線の太さが、素材を分ける
まず線である。
先の《揚屋町の入口》をもう一度見てほしい。
建物の柱と屋根は、細く均一な線で引かれている。定規を当てたような線である。
一方、人物の輪郭は太く、抑揚がある。
袖口や裾では線が膨らみ、指先では細く消える。
同じ黒でも、太さを変えるだけで木と布が分かれる。
顔の描き方も見てほしい。
輪郭は一本の細い線で、目と口は短い線で示される。
眉は薄く、鼻はほとんど省かれている。
線が少ないほど、見る側が想像で補う余地が増える。
美人画の顔がのちに型として固まるのは、この省略が受け継がれたためだろう。
一方で、着物の模様は執拗に描かれている。
顔を省き、衣を描き込む。この比重の置き方が、浮世絵の見せ場を決めた。
着物の模様は、細い線の反復で示されている。
丸い紋、格子、縞。塗り分けではなく、線の間隔で濃さを作っている。
これは筆で描く絵の作法ではない。彫って摺る前提の設計である。
黒い面を、どこに置くか
次に黒い面である。
髪、帯、履物、そして荷物。この四つが黒く塗られている。
画面の中で、黒は少ない。しかし配置に規則がある。
人の頭がすべて黒いため、視線は自然に人物の列をたどる。
黒い面が点在することで、画面に拍が生まれる。
色がない分、黒の分量が構成の道具になっている。
工程のことも押さえておきたい。
絵師は版下絵を描く。彫師がそれを版木に貼り、線を残して周りを削る。
摺師が墨を置き、紙を伏せて擦る。
つまり絵師の筆はそのまま紙に残らない。彫師の刃に一度置き換えられる。
線に抑揚があっても、それは彫った抑揚である。
墨摺絵の線が硬く均一に見えるのは、この工程のためでもある。
逆に言えば、彫れない線は描いても消える。
絵師は最初から、彫れる線で考える必要があった。
紙も条件の一つである。
和紙は繊維が長く、水に強い。何度も擦っても破れない。
墨は繊維の中まで入るので、面が均一に沈む。
洋紙に同じ版木を当てても、この沈み方は出ない。
材料と工程と線の性質は、ひとまとまりで考えるほかない。

屋内を描いた一枚である。
左に大きな屏風。漢字が縦に書かれ、中央に「獨」の一字が大きい。
その前に三味線を弾く人物と、扇を持って立つ女性。
中央には膳が並び、人が輪になって座っている。杯を持つ手が見える。
右奥に僧形の人物が二人。手前の縁側を、盆を持った女性が歩いている。
右端に梅の木。花が点で示されている。
ここでも黒は限られている。髪、屏風の文字、帯、そして数か所の小物だけである。
屏風の文字が黒の塊として効いていて、画面の左端を締めている。
人物の配置も見ておきたい。
輪になって座る人々の頭が、緩い楕円を作っている。
その楕円の外に、立っている人物が三人置かれている。
座る人と立つ人を分けることで、画面に高さの差が生まれる。
色を使わずに前後を示す方法は、こうした配置の工夫に頼ることになる。
視線の順序も設計されている。
まず屏風の黒い文字に目が行く。次に立っている女性、それから座る人の輪。
最後に右端の梅へ抜ける。左から右へ、時間が流れるように読める。
絵巻の読み方が残っている構成だと考えている。ここは解釈である。
画面を、斜めに割る
三つめは画面の分け方である。
この時代の版画は、建物を斜めから見た形で描く。
正面ではなく、平行な斜線で奥行きを示す。
線は奥へ行っても細くならず、幅も縮まない。
つまり一点に集まる遠近法ではない。
この方式だと、部屋の中と外を同じ画面に並べられる。

上段に三つの部屋、下段に通りが描かれている。
部屋の中では人が集まり、楽器を弾く者、話す者がいる。
通りには十人以上が歩いている。荷を担ぐ者、連れ立つ女性、子ども。
上下二段に切り、あいだを縁側の横線で仕切っている。
人数を数えてみると、上段に十数人、下段に十数人いる。
一枚の紙に三十人近くが描かれている。
一人ひとりの顔は数本の線でできている。目は短い横線、鼻は小さな鉤である。
それでも、向いている方向と姿勢で人物が描き分けられている。
省略の度合いを一定に保つことが、群像を成立させている。
このやり方は、後の世代にも引き継がれた。
群像の並べ方については別のコラムで扱っている。
一人を大きく見せる方向へ進むのは、さらに後の時代である。
顔だけを紙いっぱいに描く大首絵はこちらのコラムで扱った。
初期の版画は逆に、人を小さく、数多く描いている。
都市を見せる絵だったからである。
同じ画家の中でも、屋内の絵では人が大きく、通りの絵では小さい。
主題に応じて縮尺を変えている。一定の様式に縛られていない。
一枚の紙に、屋内と屋外を同時に見せる構成である。
なお、この画像には上端に濃度標が写り込んでいる。記録用の撮影がそのまま公開されているためだ。
作品の一部ではないので、見るときは省いてほしい。
描かれている場所について
ここで、主題そのものに触れておきたい。
これらの絵の舞台は吉原である。幕府が認可した遊廓の区域だった。
先の《吉原の場面》をもう一度見ると、左に格子の張られた部屋がある。
その内側に、女性が数人座っている。
これは「張見世」と呼ばれた仕組みで、通りから姿を見せる場だった。
つまり、格子は装飾ではない。人を見せるための設備である。
遊廓で働いた女性の多くは、前借金によって拘束されていた。
自由に出られる場所ではなかったことは、当時の制度の記録から分かっている。
この点を書かずに、絵を「江戸の風俗」として眺めるのは公平でないと考えている。
同時に、これらの版画が当時の都市の様子を伝える資料であることも確かである。
建物の作り、履物、荷の運び方、通りの幅。読める情報は多い。
資料として使いながら、描かれた人の立場を忘れないでおきたい。
もう一点、絵の側の事情もある。
これらの版画は、遊廓の案内としても使われていた。
店の名や区画の名を題に入れ、通りの様子を見せる。宣伝の役目である。
つまり画家は、記録者でもあり、宣伝物の作り手でもあった。
「記録」という言葉の危うさは別のコラムでも扱った。
作られた目的を確かめてから、資料として読むほうがよい。
そのうえで、絵から確かに読める事実もある。
通りの幅、建物の階数、履物の形、荷の担ぎ方、子どもの服装。
物の形は、宣伝のために変える必要がない部分である。
意味づけは作り手の言葉として読み、形は資料として読む。
この二段の読み方は、他の時代の絵にも使える。
遊廓だけを描いたのではない
主題の幅も確かめておく。

こちらは屋外の場面である。
右に黒い馬が二頭。鞍を置き、口を開けている。
馬を引く人物が二人。左に笠をかぶった従者と、連れ立つ武家の二人。
背後に垣と梅の古木。枝が右へ長く伸びている。
画面右上に、署名らしい文字と印がある。
物語の一場面とも、旅立ちの図とも読める。
同じ画家は、武家の場面、物語絵、そして歌の題材も手がけていた。
もともとは、本の絵だった
もう一点、形式の話をしておきたい。

これは一枚絵ではない。本である。
見開きの左右に、それぞれ女性が二人ずつ描かれている。
上部には仮名の文がびっしり並ぶ。絵と文が同じ版に彫られている。
寸法は縦27センチ、横18.4センチ。厚さは3ミリしかない。
版画の絵師は、まず本の挿絵を描く職人だった。
一枚で売る絵は、そこから分かれて出てきた形式である。
だから初期の一枚絵は横長が多い。本の見開きと同じ比率だからである。
縦長の判型が標準になるのは、後の世代の話になる。
この本の寸法も見ておきたい。厚さは3ミリである。
数十枚の紙を綴じた薄い冊子で、値段も安かったと考えられる。
絵入本は、文字を読む人と読まない人の両方に届く商品だった。
絵だけ眺めても筋が追えるように作られている。
一枚絵が独立したのは、その絵の部分に需要が集まったからだろう。
判型の話は別のコラムでも扱っている。
残っている数が少ない
数の話をしておきたい。
当サイトが公開する師宣の作品は14点である。
同じ時期の絵師としては多いほうだが、後の広重や北斎とは桁が違う。
理由はいくつか考えられる。摺った枚数そのものが少なかったこと。
紙が薄く、日用品として扱われたこと。そして三百年以上たっていること。
初期の版画は、額に入れて飾るものではなかった。
貼ったり、綴じたり、包んだりして使われ、使い切られた。
包み紙に使われた例も知られている。反古紙として再利用されたのである。
絵として大事にされたのは、後の時代の見方による。
いま残っているのは、たまたま仕舞われた分である。
そう考えると、この14点はかなり幸運な生き残りということになる。
見立て——墨一色は、制約ではなく設計だった
まとめておきたい。
色がないことを、技術の遅れと見るのは正しくない。
線の太さで素材を分け、黒の配置で拍を作り、斜線で空間を割る。
色を使わない前提で、絵の作りが組み立てられている。
その設計が完成していたからこそ、色が加わったときに一気に華やかになった。
錦絵の見事さは、墨摺絵の百年に支えられている。
彫って摺るという工程が、線の性質を決めたことも大きい。
筆の勢いをそのまま残すのではなく、彫れる線に置き換えている。
版画は、絵師の手だけでできる仕事ではない。
そして、この設計は現代の印刷物にも残っている。
新聞の挿絵、漫画の線、白黒の図解。どれも同じ問題を扱っている。
線の太さで素材を分け、黒の面積で拍を作る。
三百四十年前の版画と、手法の骨格は変わっていない。
もう一つ、残りやすさの話もある。
墨は退色に強い。紅や藍は光で褪せるが、墨はほとんど変わらない。
だから初期の墨摺絵は、いま見ても摺られた当時に近い状態を保っている。
彩色された分だけが褪せ、墨の線が残る。
私たちが「線の絵」として見ているものの一部は、時間が選別した結果である。
暮らしへ——写真を白黒にしてみる
最後に、日常に持ち帰れる話をひとつ。
手元の写真を一枚、白黒にしてみてほしい。
色を落とすと、たいてい画面が散らかって見える。
色でまとまっていた部分が、明暗だけでは分かれないからである。
そこで、暗い部分がどこにあるかを確かめてみる。
黒い塊が画面に三つか四つ、離れて置かれていると落ち着く。
これは墨摺絵がやっていたことと同じである。
版画を飾るときは、白黒の作品ほど余白を広く取るとよい。
壁の色も効く。白い壁だと紙の白が沈むので、灰色や生成りの壁のほうが線が立つ。
紙の白が働くからである。額と余白の取り方は別のコラムにまとめた。


