作品を知る

止まった画面で、動きをどう示すか——ホーマー・キルヒナー・劉節ほか九点

絵は一つの瞬間しか持てない。それでも動いて見える絵がある。九点で、その方法を五つに整理したい。あるはずのない位置に置く、体を曲げる、布を流す、段階を並べる、輪郭を崩す。魚が二点、東西から出た。止まっている一点があることで、逆に分かることもある。

跳ねる鱒
ウィンスロー・ホーマー《跳ねる鱒》クリーヴランド美術館蔵

魚が、空中で止まっている

暗い緑の画面である。

上のほうは、深い墨色に近い。

下のほうに、白い波が横に走る。

その上に、魚が一匹いる。

体は水から離れ、宙に浮いている。

腹は銀白色で、光る。

背は暗い緑。

鰭は赤みを帯びる。

尾が下へ跳ね、体は右上を向く。

口は少し開いている。

水面には、波紋の跡がある。

跳ねる鱒
ウィンスロー・ホーマー《跳ねる鱒》1889年。館の記録では、黒鉛の上に水彩。紙全体35×50.6センチ。番号は1973.142。クリーヴランド美術館蔵。ウィンスロー・ホーマー《跳ねる鱒》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、技法を「黒鉛の上に水彩」と書いている。

まず鉛筆で形を取り、その上に色を置く。

水彩は、塗り直しが難しい。

濃い色を重ねることはできるが、薄くは戻せない。

だから、下描きで形を決めておく。

この一点でも、魚の輪郭に細い線の跡が見える。

そして、暗い背景は何度も重ねられている。

紙の白は、魚の腹にだけ残る。

館の記録によれば、この魚は虫か擬似餌を追っている。

そして館は、この作者が山地の主題を手がけた時期に触れている。

これは館の説明である。

こちらで確かめられるのは、魚が水の上にいる、ということだ。

絵は動かない。

一枚の画面は、一つの瞬間しか持てない。

それなのに、動いていると読めることがある。

なぜか。

この一点の場合、答えははっきりしている。

魚が、あるはずのない場所にいるからだ。

水の中にいる魚は、動いていなくてもよい。

水の上にいる魚は、落ちる途中でしかありえない。

だから、次の瞬間が想像される。

九点を並べて、動きの示し方を数えたい。

同じことを、四百年前にもやっている

跳ねる鯉
劉節《跳ねる鯉》明時代。館の記録では、掛軸。絹に墨と色。画面140.5×83.7センチ。全体226×101.2センチ。軸端を含めて226×109.5センチ。番号は1977.55。クリーヴランド美術館蔵。劉節《跳ねる鯉》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、寸法を三つ書いている。

画面が140.5×83.7センチ。

表装を含めて226×101.2センチ。

軸端まで含めると、幅が109.5センチになる。

縦は、画面の一・六倍である。

第十九回で、掛軸の寸法の書き方を扱った。

高さの話で見たとおり、画面と表装は別に測られる。

そしてこの一点では、軸端の分まで別に書かれている。

大きな掛軸である。

画面だけで縦140.5センチある。

絹は褐色に変わっている。

上のほうに、大きな魚が一匹いる。

体をくねらせ、頭を下に向ける。

鱗が一枚ずつ描かれている。

その下に、小さな魚が何匹か続く。

いちばん下にも、二匹いる。

水面や波は、ほとんど描かれていない。

薄い墨で、流れらしいものが示されるだけである。

右上に、小さな花のようなものが散る。

館の記録によれば、この作者は宮廷の画家で、魚の絵で知られたという。

そして、署名と印が画面の左上にあると書かれている。

これは館の記述である。

先の水彩と、四百年ほど離れている。

材料も、場所も違う。

だが、やっていることは同じである。

魚を、水の外に置く。

体をくねらせる。

尾を、体と反対の向きに振る。

この三つで、動きが伝わる。

とくに、体のくねりが効いている。

まっすぐな魚は、止まって見える。

曲がった魚は、次に伸びると分かる。

館の記録は、鯉が縁起のよい主題だとも書く。

流れをさかのぼる魚の話が、古くからある。

魚が二点、東西から出た

九点のうち二点が、跳ねる魚だった。

これは、選んだときには気づかなかったことである。

記録の語で拾った結果、たまたま並んだ。

一点は十九世紀の米国の水彩。

もう一点は、十五世紀から十七世紀の中国の掛軸。

材料も、大きさも、場所も違う。

それでも、扱いがよく似ている。

どちらも、魚を水から出している。

どちらも、体を曲げている。

どちらも、水の描写を最小限にしている。

なぜ似るのか。

理由は、対象の側にあると思う。

魚は、水の中では見えない。

水面の下は、光が届かず、輪郭がぼやける。

はっきり見える瞬間は、跳ねたときだけである。

だから、魚を描くとき、跳ねる瞬間が選ばれる。

対象の性質が、描き方を決めている。

第十九回で、鳥の居場所を数えたときも似たことがあった。

鳥の話では、飛ぶ鳥より枝の鳥が多かった。

止まっている鳥は描きやすい。

魚は、止まっていると描けない。

だから逆になる。

対象ごとに、選ばれる瞬間が違う。

群れが走ると、動きが増える

出発の争い(レスターシャーの狩りより・第一図)
ジョン・ディーン・ポール《出発の争い(レスターシャーの狩りより、第一図)》1825年刊。館の記録では、象牙色の織目紙に手で彩色したアクアチント。画面22.6×56.1センチ。版32.9×63.3センチ。紙全体42.5×73センチ。番号は1929.215。シカゴ美術館蔵。ジョン・ディーン・ポール《出発の争い(レスターシャーの狩りより・第一図)》シカゴ美術館蔵

館の記録は、寸法を三つ書いている。

画面が22.6×56.1センチ。

版が32.9×63.3センチ。

紙全体が42.5×73センチである。

つまり、版の外にも余白が広い。

アクアチントは、細かい粒で面を作る技法である。

樹脂の粉を版に撒き、熱で固める。

その隙間を薬で腐食させると、粒の集まりが版になる。

線ではなく、面で明るさを作れる。

そこへ、手で色を塗る。

館の記録は、彩色が手によると書いている。

極端に横長の画面である。

縦22.6センチに対して、横が56.1センチ。

二倍半ある。

そこに、馬と人が十数組、横一列に近い形で走る。

赤い上着の人が多い。

馬の脚は、前後に大きく開く。

いくつかの馬は、四本とも地面から離れている。

手前に、柵と溝がある。

それを跳び越える馬もいる。

奥は、なだらかな野原である。

小さく、犬の群れが散る。

空は薄い青と白。

画面の下に、文字が二行ある。

一頭だけでは、この効果は出ない。

十数頭が同じ方向へ動くと、画面全体が流れる。

そして、脚の形がそれぞれ違う。

前脚を上げた馬、後脚で蹴る馬、宙に浮く馬。

違う段階を並べることで、連続した動きが示される。

第十九回で、馬は横から描かれると書いた。

馬の向きの話で見たとおり、横向きは脚の運びを見せる向きである。

ここでは、その理由がはっきり出ている。

走る人を、上から見る

タブリーズの狼追いの競技(アクバル・ナーマより)
バナヴァリー(一世)《タブリーズの狼追いの競技(アクバル・ナーマより)》1595年から1600年ごろ。館の記録では、紙に樹脂を混ぜた顔料、墨、金。ページ全体35.2×23.8センチ。番号は2003.38。クリーヴランド美術館蔵。バナヴァリー(一世)《タブリーズの狼追いの競技(アクバル・ナーマより)》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、ページ全体の寸法だけを書いている。

35.2×23.8センチである。

前の回で見たムガルの一葉では、画面と縁が別に測られていた。

この一点では、分けられていない。

同じ館の同じ部門でも、記録の細かさが揃わない。

縦長の一葉である。

上のほうに、赤い城壁と建物がある。

塔と、丸屋根が並ぶ。

その手前から、緑と桃色の斜面が広がる。

斜面の上に、人が四十人以上いる。

多くが走っている。

腕を振り、脚を開く。

倒れている人もいる。

中央に、獣が一頭いる。

その周りに、人が集まる。

上のほうの城壁の窓から、人々が見下ろす。

視点は高い。

真上に近い角度から、斜面全体が見える。

館の記録によれば、これは歴史の書物の挿絵である。

亡命中の君主が、ある都で歓待された場面だという。

そして、その席で競技が催されたと記録は書く。

これは館の説明である。

こちらで確かめられるのは、大勢が走っている、ということだ。

高い視点は、動きを見せるのに向いている。

真横から見ると、手前の人が奥の人を隠す。

上から見れば、全員が重ならずに置ける。

四十人以上の姿勢を、一枚に並べられる。

そして、姿勢が全部違う。

同じ形の人が一人もいない。

逃げるという動き

トロイアを逃れるアイネイアスとその一族
アゴスティーノ・カラッチ《トロイアを逃れるアイネイアスとその一族》1595年。館の記録では、エングレーヴィング。版40.6×52.5センチ。紙全体40.7×54センチ。番号は1963.456。クリーヴランド美術館蔵。アゴスティーノ・カラッチ《トロイアを逃れるアイネイアスとその一族》クリーヴランド美術館蔵

版と紙の寸法が、ほとんど同じである。

版が40.6×52.5センチ、紙が40.7×54センチ。

縦は一ミリしか違わない。

つまり、版の縁ぎりぎりで紙が切られている。

余白がほとんど残っていない。

前の回でも、こうした裁断の例を見た。

持ち主が余白を切ることは、珍しくない。

画帖に貼るとき、余白は邪魔になる。

石造りの建物の間である。

左に、太い柱が立つ。

右奥に、崩れかけた建物が見える。

中央に、人物の塊がある。

一人の男が、老人を肩に担いでいる。

老人は、小さな箱のようなものを抱える。

その足元に、子どもがすがりつく。

後ろに、女性が続く。

さらに後ろにも、人がいる。

床には、倒れた人と、割れた石がある。

衣が、全員の後ろへ流れる。

線は細かく、密度が高い。

館の記録によれば、これは古い叙事詩の場面である。

そして館は、この版が別の画家の構図に基づくと書いている。

うねるような構図と、細かい線の網が、次の時代を予告するという。

これは館の見解である。

こちらで確かめられるのは、衣が後ろへ流れている、ということだ。

第十九回で、動きは布で描かれると書いた。

布の話で見たとおり、体はそれほど動かない。

ここでも、動きの大半は衣が担っている。

人物の脚は、実はあまり開いていない。

だが、衣が後ろへ引かれることで、前へ進んでいると読める。

恥じらいのヴィーナス型の水浴、トリトン、逃げる人物の構図(素描帖より)
トマス・サリー《恥じらいの型の水浴、トリトン、逃げる人物の構図(素描帖より)》1810年から20年。館の記録では、紙にインクと淡彩。22.9×29.2センチ。番号は53.182.13裏。メトロポリタン美術館蔵。トマス・サリー《恥じらいのヴィーナス型の水浴、トリトン、逃げる人物の構図(素描帖より)》メトロポリタン美術館蔵

線だけの素描である。

紙の中央に、人物が数人いる。

左に、体をひねった人物が立つ。

その右に、水から出る人物がいる。

さらに右に、腕を上げた人物が走る。

背景に、木らしい線がある。

輪郭は細く、途切れがちである。

濃淡は、薄い淡彩で示される。

館の記録は、番号に「裏」と付けている。

素描帖の一葉の、裏側である。

三つの人物が、それぞれ違う姿勢を取る。

一つの場面というより、姿勢の見本に見える。

第七回で、手だけを並べた紙を見た。

手の話で扱った素描と、性格が近い。

構図を試すための紙である。

走る姿勢も、その中の一つとして描かれている。

走る形を、立体にする

梟の巣を持って走る幼い女サテュロスと梟を持って走る幼いサテュロス(一対の小像)
クロディオン《梟の巣を持って走る幼い女サテュロスと梟を持って走る幼いサテュロス(一対の小像)》1770年代。館の記録では、テラコッタ。全体32.1×14.8×18.1センチ。台を含めて45.1センチ。番号は1944.129。クリーヴランド美術館蔵。クロディオン《梟の巣を持って走る幼い女サテュロスと梟を持って走る幼いサテュロス(一対の小像)》クリーヴランド美術館蔵

二体の小さな像である。

どちらも、円い台の上に立つ。

台は大理石らしい模様を持ち、金色の輪がはまる。

像は、白っぽい焼き物である。

左の像は、腕に丸いものを抱える。

右の像は、片手に小さな鳥らしいものを持つ。

どちらも、片脚を前に出す。

もう片方は、後ろで曲がる。

体は前へ傾く。

腰に、葉のような形の布が巻かれる。

その布が、後ろへ流れる。

走る姿を彫刻にするのは、難しい。

第十一回で書いたとおり、彫刻は立たなければならない。

立つ話で見たとおり、支えの問題がある。

走る姿勢では、片脚しか地面に着かない。

この二体は、後ろの脚も台に触れている。

つま先か、脇の葉の形が、台に達している。

そうやって、二点で支えている。

動きを見せながら、倒れないようにする。

その折り合いが、この形になっている。

組み合う体

サーカスのレスラーたち
エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー《サーカスのレスラーたち》1909年。館の記録では、布に油彩。80.5×94センチ。額を含めて107.5×121×7センチ。番号は1966.49。クリーヴランド美術館蔵。エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー《サーカスのレスラーたち》クリーヴランド美術館蔵

明るい色の画面である。

床は、黄と緑と赤で塗り分けられる。

中央に、二つの体が絡み合う。

一方は桃色、一方は青である。

どちらが誰の体か、判別しにくい。

腕と脚が交差する。

顔は、黒い点として置かれる。

周囲に、黒い塊が並ぶ。

観客らしい。

輪郭線はなく、面と面が接する。

筆は太く、絵具が厚い。

館の記録は、この作り方を書いている。

ゆるい筆で、動く体のぶれをとらえたという。

そして館は、叫ぶ観客に囲まれた場面を想像するよう促す。

これは館の書き方である。

こちらで確かめられるのは、体の輪郭が定まっていない、ということだ。

先の八点と、動きの示し方が違う。

形をはっきり描いて、姿勢で動きを示すのではない。

形そのものを崩している。

動いているものは、見えにくい。

その見えにくさを、そのまま描いている。

動きの語があっても、動いていない

二代目坂田半五郎の相撲取り
一筆斎文調《二代目坂田半五郎の相撲取り》1770年ごろ。館の記録では、木版画。紙に墨と色。高さ28.6センチ、幅13.5センチ。番号はJP1227。メトロポリタン美術館蔵。一筆斎文調《二代目坂田半五郎の相撲取り》メトロポリタン美術館蔵

縦長の版画である。

一人の人物が立つ。

上半身は裸で、肩と腕が太い。

腕を胸の前で組む。

下は、模様のある衣をつける。

足は素足で、大きく開く。

顔は正面を向き、眉が太い。

背景は、薄い色で塗られる。

右下に、文字と印がある。

題には、力士を演じる役者とある。

つまり、これは組み合う競技を扱った一点である。

だが、画面の中では動いていない。

立って、腕を組んでいるだけである。

これは、役者絵の型である。

芝居の一場面ではなく、その役の姿を見せる。

見得を切った姿勢を、そのまま止める。

第十九回で、扱った役者絵も同じだった。

動きの語で拾った九点のうち、この一点だけが静止している。

そして、この一点があることで、逆に分かることがある。

動きを示すには、姿勢を崩さなければならない。

まっすぐ立って腕を組めば、どんな主題でも止まって見える。

動きを示す、五つの方法

九点から読めた方法を、整理しておきたい。

一つ目は、位置を不自然にすることである。

魚を水の上に置く。

馬の四本の脚を、地面から離す。

そこにあり続けられない位置に置けば、次の瞬間が想像される。

二つ目は、体を曲げることである。

まっすぐな体は止まって見える。

曲げると、伸びる方向が生まれる。

魚のくねりが、その典型だ。

三つ目は、布を使うことである。

体の後ろへ布を流せば、前へ進んでいると読める。

風の向きが、進む向きの裏返しになる。

四つ目は、段階を並べることである。

同じ動作の違う瞬間を、複数の人物に割り当てる。

狩りの一点では、馬の脚の形が全部違っていた。

狼追いの一点では、四十人以上の姿勢が全部違う。

一枚の中に、時間の幅を作っている。

五つ目は、形を崩すことである。

輪郭をぼかし、面を重ねる。

見えにくさそのものを描く。

九点のうち、これを選んだのは一点だけだった。

そして、この五つは組み合わせて使える。

狩りの一点では、位置と段階の両方が使われている。

逃げる場面では、布と体の曲げが使われている。

一つの方法だけで済ませている作品は少ない。

動く体は、どこを見ているか

視線も数えた。

こちらを見ているのは、止まっている一点だけである。

役者絵の力士が、正面を向く。

残る八点では、人物や動物が別の方向を見ている。

走る先を見るか、追う相手を見るか。

これは当然でもある。

動いているなら、行き先を見なければならない。

そして、その視線の向きが、動きの向きを補強する。

魚の二点は、口が進む向きを向く。

狩りの馬は、全部が同じ方向を向く。

逃げる一点では、担ぐ男が前を見て、老人が後ろを見る。

一つの塊の中で、向きが割れている。

館の記録は、そこには触れていない。

だが、この向きの割れが、場面の緊張を作っている。

第十九回で、視線の抜ける先を扱った。

動きのある絵では、視線と進行方向がふつう一致する。

一致しないとき、そこに何かがある。

九点を並べて、数えられたこと

動いているのは八点。

止まっているのは一点である。

動きの示し方を数えた。

あるはずのない場所に置く。

これが二点。

どちらも魚である。

体をねじる、あるいは曲げる。

これが五点。

衣を後ろへ流す。

これが三点。

多数を並べて、違う段階を見せる。

これが二点。

輪郭を崩す。

これが一点。

複数を組み合わせている作品も多い。

材料も数えた。

紙が六点、布が一点、絹が一点、焼き物が一点。

版画が三点、素描が二点である。

記録に書かれていないこと

館の記録は、動きの速さを書かない。

走っているのか、歩いているのかも、題に頼るしかない。

九点のうち、題に動きの語が入るのは七点だった。

跳ねる、走る、逃れる、争う、組み合う。

いずれも動詞である。

第七回でも書いたが、動詞にできることは記録に載りやすい。

手の話では、手の行為が題に入っていた。

姿勢や向きは、動詞にしにくい。

だから記録に載らない。

動きは、動詞になる。

だから載る。

記録の欄は、言葉にしやすいものを拾い、しにくいものを落とす。

九点は、そのことをはっきり示している。

そして、動きの向きも記録に載らない。

右へ走るのか、左へ走るのかは書かれない。

九点を数えると、右向きが四点、左向きが三点だった。

残る二点は、向きが定まらない。

組み合う二人と、大勢が入り乱れる一点である。

向きが決まらないのは、動きが打ち消し合うからだ。

次の回は、人体の習作そのものを見る。

動きも姿勢も、そこで練習されている。

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