龍は、うねる胴だけで成り立つ——デューラー・ラッカム・モリスほか九点

横長の海の絵である。
画面の下三分の一に、波が押し寄せる。
白い泡が横一列に砕ける。
右には黒い岩が突き出し、その手前に流木が積み上がる。
上三分の二は空である。
空は暗く、茶色と灰色が混じる。
その空から、幾筋もの筋が斜めに垂れている。
雨の柱である。
海面との境目は、白くにじんでいる。
館の札は「海景」と「波」の二つである。
つまり館は、この画面を海と波として登録している。
題にある語は、水が柱になって立ち上がる現象を指す。
日本語では、その現象に竜の字を当てる。
しかし画面には、獣の形はない。
あるのは、水と空の境で起きていることだけである。
同じ画家の海と花については、海と花で扱った。
絵の具の置き方も見ておきたい。
波の白は、厚く盛られている。
近づけば、絵の具の峰が立っているのが分かる。
対して空の暗い部分は、薄く広く伸ばされている。
厚いところと薄いところの差が、そのまま水と空の差になっている。
竜と呼ばれる柱は、その中間の厚さで描かれている。
つまり水でも空でもない中間として、絵の具の量が決められている。

小さな水彩である。
19.1×25.4センチしかない。
手前に、なだらかな丘が広がる。
丘には草が生え、細かい点で表されている。
中景には木立があるが、その多くが倒れている。
幹が折れ、枝が地面に散らばる。
一本だけ、裸の幹が立っている。
枝はすべて失われている。
左のほうに、人がひとり立っている。
右には、数人が集まっている。
空は白く、雲が横に流れる。
館の札は「風景」の一語である。
つまりこの一枚は、風景として登録されている。
題は、過ぎ去ったあとの時間を指している。
風はもういない。
倒れた木だけが、そこにあった力を示している。
この画家の仕事については、外交官の見たアメリカで扱った。
虫の名にも、龍の字が入る
最後の一点は、装身具である。

金でできた小さな飾りである。
7.7×9.7センチしかない。
中央に、細長い胴が縦に伸びる。
胴は下へ向かって細くなり、先が尖る。
その胴の中ほどに、白く光る石が嵌まっている。
石は楕円形で、乳白色に青みがさす。
左右には、翅が二対、斜め上へ広がる。
翅は透ける七宝でできている。
金の細い枠が葉脈のように走り、そのあいだに青緑の色が張られている。
光にかざせば、色が透ける。
翅の下には、水色の小さな石が下がる。
館の記録では、この技法は透かしの七宝である。
つまり、下地の金属を持たない七宝で、窓のように光を通す。
蜻蛉は、その透ける翅を見せるのに適した虫だった。
英語では、この虫の名に龍の語が入っている。
しかしこの飾りに、獣の形はない。
あるのは、六本の脚と、四枚の翅である。
自然の形を装身具にすることについては、自然を写したガラスで扱った。
数えてみると
九点を並べ直す。
龍の姿が描かれているのは、五点である。
槍に貫かれる一頭、金貨の裏の一頭、剣の金の一頭、根のあいだの一頭、織物の中の二頭。
龍の字だけが残っているのは、四点である。
川の名、二つの風の名、そして虫の名。
もう一つ数えておく。
姿のある五点のうち、翼を持つのは三点である。
木版の一頭と、金貨の一頭と、織物の一頭。
翼のない二点は、剣の金と、根のあいだの一頭である。
つまり翼は、龍の必須の部品ではない。
必ずあるのは、うねる細長い胴である。
五点のすべてで、体は蛇のように曲がっている。
脚の数も数えておく。
木版の一頭は四本、金貨の一頭は判別しにくい。
剣の金の一頭は二本、根のあいだの一頭も二本である。
織物の一頭には脚がほとんど描かれていない。
つまり脚は、あってもなくてもよい部品である。
胴のうねりだけが、どの点にも欠かさず現れる。
言えることと、言えないこと
言えるのは、龍が「うねり」でできているということである。
たてがみと口で獅子が成り立つように、龍は曲がる胴で成り立つ。
翼はあってもなくてもよい。
脚の数も、点によって違う。
しかし胴がまっすぐな龍は、九点のどこにもない。
言えないのは、字だけになった四点が偶然だという話である。
川の名も、風の名も、虫の名も、いずれもうねる形を指している。
曲がりくねる川、渦を巻く風、細長い虫。
名前を付けた人は、形の共通点を見ていたと考えられる。
ただし、それは絵から言えることではない。
言葉の側から言えることである。
最後に、はじめの一枚へ戻る。
槍に貫かれた竜は、体を大きく曲げていた。
貫かれてもなお、うねっている。
その曲がりを描くために、木版の線は幾度も折れ返している。
殺される獣でありながら、いちばん多くの線を与えられている。
九点を数え終えて残るのは、その線の折れ返しのほうである。








