美術史・技法

祭りの絵は、行列の顔でやって来る——グアルディ・石鋭・ジローほか九点

祭りの絵を九点集めると、五点までが行列にかかわっていた。ヴェネツィアの凱旋車、瓜を引く虫たち、雛壇の三月、月を待つ巻物、名も日付も失われた湖畔の行列。何の日の絵かを記録に探しながら、祭りが絵になる形を数える。

ヴェネツィア、サン・マルコ広場の凱旋車の行列(表)
フランチェスコ・グアルディ《ヴェネツィア、サン・マルコ広場の凱旋車の行列(表)》クリーヴランド美術館蔵

広場のまわりに、人の垣ができている

茶色いインクだけで、横に長い紙いっぱいに広場が描かれている。

奥には、二階建ての柱廊がどこまでも連なる。

その足もとを、豆粒のような人の群れがびっしりと埋めている。

手前の半分は、がらんと空いたままである。

人垣の奥を、飾りを高く立てた車が何台も進んでいく。

紙のいちばん下には、車を引く人々が、もう一度大きく描かれている。

ヴェネツィア、サン・マルコ広場の凱旋車の行列(表)
フランチェスコ・グアルディ《ヴェネツィア、サン・マルコ広場の凱旋車の行列(表)》1782年。館の記録では、ペンと褐色インク、筆と褐色の淡彩。紙は25.9×36.8センチ。番号は1955.164.a。クリーヴランド美術館蔵。フランチェスコ・グアルディ《ヴェネツィア、サン・マルコ広場の凱旋車の行列(表)》クリーヴランド美術館蔵

場所は、ヴェネツィアのサン・マルコ広場である。

1782年、ロシアの大公夫妻がこの街を訪れた。

館の記録では、この紙は歓迎の祝典の、終わりの前日の行列を写す。

寓意で飾った五台の車が、広場を巡ったという。

グアルディは、広場に面した建物の上からこれを描いた。

筆のゆるさと勢いは、その場で描いた証拠だと記録は読む。

依頼主は、ヴェネツィアの国だったらしい。

館の記録は、この一枚の作りにも触れている。

できるだけ長い行列を紙に収めるため、右側の建物の遠近を操作したという。

柱廊が実際より深く奥へ伸びて見えるのは、そのためである。

見物の位置は、広場に面した建物の上だった。

同じ祝典を描いた紙が、ベルリンにもう一点ある。

油彩も二点、ヴェネツィアとミラノの個人の手に残るという。

一日の行列が、少なくとも四つの画面に分けて残された。

付記には、紙の左端が切られたかもしれない、ともある。

ほかの絵に出てこない六台目の車を、外すためだろうという。

つまりこの紙は、何年の何の日の絵か、そこまで決められる。

祭りとは、日付のある出来事だからである。

日付がなければ、それはただのにぎわいである。

節句も祝日も、暦の決まった日に帰ってくる。

大公の訪問のような一度きりの祝典にも、その日だけの日付がある。

きょうは特別な日だ、という約束が、人を広場に集める。

その約束は、絵の外にある。

画面に写るのは、集まった結果のほうだけである。

では、その特別な一日を、絵はどんな形で残してきたのか。

九点を並べて、その形を数えてみる。

瓜の山車を、綱で引く

墨の線だけでできた小さな者たちが、紙の上で騒いでいる。

頭には、二本の触角が生えている。

虫である。

右手の大きな瓜に綱をかけ、みなで引っぱっている。

瓜の上には一匹が立ち、枝をかざして音頭を取る。

虫の祭り
没倫紹等《虫の祭り》江戸時代。館の記録では、掛幅・紙本墨画。画面は30.7×45センチ。表具を含めて122.5×55.9センチ。番号は1988.16。クリーヴランド美術館蔵。没倫紹等《虫の祭り》クリーヴランド美術館蔵

館の記録では、これは虫たちの祭りの行列である。

瓜を山車のように運び、前では二組が綱を引く。

後ろからは、棒であやつって押していく。

笛と太鼓がはやし、扇と枝を持った踊り手があおる、とある。

祭りの道具立てが、ひととおりそろっている。

引かれる大きなものがあり、囃す音があり、踊る者がいる。

山車は、祭りのために作られて、祭りの日にだけ動く。

残りの日は、蔵にしまわれている。

動くものをみなで引く、そのこと自体がもう祭りである。

賛は、一休の弟子の僧、没倫紹等のものと伝えられる。

没倫は、1492年に没した人と記録される。

いっぽう絵の年代の欄は、江戸時代となっている。

賛の人と紙の年代が合わない事情までは、記録は書かない。

決められるのは、瓜が山車で、行列が進んでいることだけである。

没倫は、一休宗純の弟子である。

肖像画の名手として日本でよく知られる、と記録は書く。

虫たちの顔は、触角を除けば人の顔をしている。

角がなければ、村の若い衆の行列に見えるだろう。

祭りの絵は、演じ手を虫に取り替えても、祭りの形を失わない。

引く者と、押す者と、囃す者と、踊る者。

この四つの役がそろえば、祭りは成り立つ。

三月の祭りは、家の中にある

多色摺の、縦長の画面である。

上半分に、座敷が見える。

赤い段の上に、人形と小さな道具が並べてある。

そのそばで、着物の女の人がうつむき、幼い子が段をのぞきこむ。

右上の札には、十二月と三月の字が読める。

雛祭り(三月)
石川豊雅《雛祭り(三月)》1767年ごろ。館の記録では、木版摺・紙に墨と色。25.4×18.7センチ。番号はJP851。メトロポリタン美術館蔵。石川豊雅《雛祭り(三月)》メトロポリタン美術館蔵

雛祭りである。

祭りの名に、三月という月の名が付いてまわる。

下の半分では、三人の子どもが小さな駕籠をかついでいる。

赤く塗った棒に、屋根のある駕籠が下がる。

中には、人形がひとつ乗っている。

先頭の子は、ふさの付いた棒を高くかついで歩く。

行列の遊びに、見える。

雛壇が祭りの飾りなら、子どもらは祭りの行列を演じている。

広場ではなく、家の中の祭りである。

暦が三月に来るたび、段が組まれ、人形が箱から出される。

館の分類の札には、室内、男、女、人形、そして魚の語が並ぶ。

魚が画面のどこを指すのかは、記録からは決められない。

祭りの膳のためのものかもしれないが、そこまでは書かれていない。

この紙は、1914年に収集家の遺族の寄贈で館へ入った。

子どもの姿の描き方は、子どもの絵を数えた回でも見た。

祭りの日は、子どもの遊びまで祭りの形にする。

月を待つ、という祭り

次は、横に長い長い巻物である。

絹の画面は、高さ27.5センチに対して、幅が155センチある。

山なみと、水辺の楼閣が続く。