美術史・技法

祈る姿勢は、体を低くする——祈祷用の木彫玉・ブリオスコ・ダヤールほか九点

祈るレーワーのマハラジャ
ラージャ・ディーン・ダヤール《祈るレーワーのマハラジャ》1886年。館の記録では、鶏卵紙の印画。画面20×27.2センチ。番号は2016.266.21。クリーヴランド美術館蔵。ラージャ・ディーン・ダヤール《祈るレーワーのマハラジャ》クリーヴランド美術館蔵

横長の写真である。

屋外らしい場所である。

背景に、壁と木がある。

中央に、装飾のある台が置かれる。

いくつもの器と、細かい細工の枠が並ぶ。

その手前に、人物が数人座る。

一人は、台の正面に座り、手に小さな数珠を持つ。

その向かいに、鏡らしいものがある。

左右にも、人がいる。

一人は立ち、白い布を掲げる。

右に、楽器を持つ人が二人いる。

床には、布が敷かれる。

館の記録は、この場面を説明している。

信仰の務めは、統治者の務めの一部だったという。

そして、数珠を繰り、鏡と向き合っていると記録は書く。

鏡は、この信仰で吉とされる品だという。

さらに、額に描かれた線が、特定の神の信徒であることを示すと記す。

これは館の記述である。

こちらで確かめられるのは、台の上に多くの器がある、ということだ。

第九回でも、記録として撮られた写真を見た。

そちらは、名前が残らない写真だった。

こちらは、人物の身分が題に入っている。

祈りの語が、芝居の題になる

九代目市村羽左衛門の信玄
勝川春章《九代目市村羽左衛門の信玄》1775年。館の記録では、多色刷りの木版画。紙全体33.4×15センチ。番号は1921.1270。クリーヴランド美術館蔵。勝川春章《九代目市村羽左衛門の信玄》クリーヴランド美術館蔵

細長い版画である。

人物が一人立つ。

薄い黄色の長い衣を着る。

その上に、細かい模様の袈裟のようなものを掛ける。

頭は剃られている。

顔は横を向き、口を結ぶ。

右手を胸の前に上げる。

左手に、小さな器を持つ。

背景は、地面と草だけである。

右下に、印がある。

館の記録によれば、これは三枚続きの中央の一枚だった。

そして、演じられているのは十六世紀の武将である。

出家して、法名を得た人物だという。

館は、その筋も書いている。

敵の水を断とうとする場面らしい。

これは館の記述である。

さて、なぜこの一点が集まったのか。

館の記録の題に、祈りの語が含まれるからである。

芝居の外題に、数珠の語が入っている。

つまり、演目の名である。

画面に祈る場面はない。

第五回でも、同じことが起きた。

髪の話では、乱れ髪の語が演目の名だった。

外題は、絵の中身の説明ではない。

手は、どう組まれているか

祈る人の手を数えた。

胸の前で合わせるものが三点。

数珠を繰るものが一点。

供え物を差し出すものが一点。

水を注ぐものが一点。

腕を上げるものが一点。

そして、手が見えないものが二点。

つまり、手の形が姿勢の中心にある。

第七回で、手が何をしているかを数えた。

手の話では、手の行為が主題を決めていた。

祈りの場合、手はふつう何も作らない。

物を持つでもなく、動かすでもない。

ただ、決まった形を保つ。

その形が、祈りの印になる。

そして、その形は地域や信仰で違う。

九点でも、揃っていなかった。

掌を合わせる形が三点。

指で珠を繰る形が一点。

腕を高く上げる形が二点。

同じ「祈る」でも、手の作りが違う。

館の記録は、そこには触れない。

書かれているのは、題と、技法と、寸法である。

手の形は、画像を見るしかない。

祈りの場を、どう作るか

九点のうち、祈る場所が作られているものを数えた。

祭壇や台があるのが二点。

祠があるのが一点。

建物の中が三点。

野外が三点である。

つまり、専用の場所は半分にも満たない。

祈りは、どこででも行える。

館の記録も、そのことに触れていた。

野外で、決まった建物なしに行われる例があると書かれていた。

そして、場所がなくても、向きは必要である。

九点を見ると、祈る人は必ず何かのほうを向いている。

幼児、祭壇、鏡、日、そして祠。

向く先がなければ、祈りの姿勢に見えない。

第十三回で、跪くには相手が要ると書いた。

跪く話で扱ったのと、同じ条件である。

そして、その相手は必ずしも人でなくてよい。

日でも、鏡でも、建物でもよい。

九点のうち、相手が人の形をしているのは五点だった。

残る四点では、日、鏡、祠、そして画面の外にある。

九点を並べて、数えられたこと

祈る人が描かれるのは八点。

芝居の題に語があるだけが一点である。

姿勢を数えた。

跪くものが四点。

手を合わせるものが三点。

座るものが一点。

立って腕を上げるものが二点。

道具を数えた。

数珠が一点、供え物が三点、祭壇が二点、鏡が一点。

そして、道具のない例が三点。

祈る場所も数えた。

屋内が三点、屋外が四点、判別できないものが二点。

材料も数えた。

板が一点、布が一点、紙が四点、大理石が一点、木が一点、写真が一点。

大きさの幅は、この回でいちばん広い。

5.8センチの木彫から、74.6センチの板絵まで。

記録に書かれていないこと

館の記録は、祈りの対象を書くことがある。

九点のうち六点で、誰に祈っているかが分かる。

だが、何を祈っているかは、どの記録にもない。

願いの中身は、記録の外にある。

そして、絵の外にもある。

姿勢と道具からは、そこまで読めない。

もう一つ、祈っている時間も書かれない。

一分なのか、一時間なのか。

第十一回でも、同じことを書いた。

立つ話では、姿勢の続いた時間が記録に残らなかった。

祈りの場合、その時間が意味を持つはずである。

長く祈れば、それだけ強い願いだと考えられる。

だが、絵は一瞬しか写せない。

そして、記録はその一瞬の材料と寸法を書く。

最後に、冒頭の木彫玉に戻りたい。

あの品は、身につけて持ち歩くものだった。

つまり、祈る人がいつでも取り出せる。

祈りの道具のうち、いちばん小さく、いちばん近い場所にある。

館の記録は、それを二つに開く容器と書いた。

開いた内側に、群衆が彫られている。

祈る人は、その群衆を手のひらで見ることになる。

そして、祈った人の名前も、多くは残らない。

九点のうち、名前が題に入るのは三点だけである。

跪く伯と、マハラジャと、芝居の武将。

いずれも、身分のある人物である。

残る六点の祈る人は、無名である。

羊飼い、街角の人々、そして娘。

第十八回でも、同じことを書いた。

名前が残るかどうかは、身分で決まる。

祈りの深さでは決まらない。

次の回は、子どもを見る。

大人と違う扱いを受ける存在である。

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