名画の楽しみ方

人を描かないという選択——バニスター・ルノワール・ミグノンほか九点

三十回にわたって画面のなかの人を見てきた。最後は、その逆である。九点とも人がいない。だが六点には、人の置いた器や布や貼り紙がある。三十回で数えたことも、あわせて振り返りたい。見えているのは作品の一部だけ、という例も四点あった。その限界も書いておきたい。

静物
エドワード・ミッチェル・バニスター《静物》スミソニアン協会蔵

誰もいない画面

正方形に近い小さな板絵である。

縦30.6センチ、横30センチ。

背景は、暗い黄土色である。

上のほうに、緑がかった暗い面がある。

布らしい。

その手前に、卓がある。

白い布が掛けられている。

卓の上に、器と果物が並ぶ。

左の奥に、把手のついた大きな器がある。

その右に、透明なコップがある。

中に、赤い液体が入る。

手前には、黄色い果物が二つ。

橙色の果物が一つ。

そして、黒い葡萄の房と、緑の葡萄の房。

人はいない。

静物
エドワード・ミッチェル・バニスター《静物》制作年不明。館の記録では、板に油彩。30.6×30センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。エドワード・ミッチェル・バニスター《静物》スミソニアン協会蔵

館の記録は、この一点について多くを書かない。

作者と、材料と、寸法だけである。

制作年も分かっていない。

第五回でも、年不明の一点を見た。

髪の話で扱った金髪の男の絵である。

年が分からない作品は、比較の表から外れる。

いつのものかが決められないからだ。

三十回にわたって、画面のなかの人を見てきた。

顔の向き、視線、切る位置、姿勢、人数、行為。

最後の回は、その逆を見たい。

人を描かないという選択である。

九点を選ぶとき、記録に風景や静物の語があり、人の語がないものを拾った。

そして、九点とも人が描かれていなかった。

前の二十九回で、これほど揃ったことはない。

人がいなくても、人の跡はある

この一点を、もう一度見てほしい。

卓があり、布が掛けてある。

器が置かれ、果物が並ぶ。

そのすべてが、人の手で置かれたものである。

布を掛けた人がいる。

果物を摘んで運んだ人がいる。

器に酒を注いだ人がいる。

つまり、人はいないが、人の行為の結果がある。

第十九回で、卓の働きを扱った。

卓の話では、物が載る面が構造だと書いた。

その面に載せるのは、人である。

館の記録には、制作年がない。

年不明と書かれている。

そして、当サイトにはこの作者を扱った記事がある。

賞を受けた画家の話で書いたとおり、この人は十九世紀の米国で活動した。

桃のある静物
ピエール=オーギュスト・ルノワール《桃のある静物》1881年。館の記録では、布に油彩。53.3×64.8センチ。番号は61.101.12。メトロポリタン美術館蔵。ピエール=オーギュスト・ルノワール《桃のある静物》メトロポリタン美術館蔵

この作者の絵は、九点のうちで唯一、署名と年が読める。

右下に、書き込みがある。

館の記録は、その内容を書いていない。

第十六回で、署名の扱いを扱った。

署名があると、帰属の問題が減る。

そして、年が特定できる。

横長の画面である。

背景に、模様のある布が垂れる。

赤と青と黄が、渦を巻くように並ぶ。

その手前に、白い布を掛けた卓がある。

布は青みを帯びた白で、影が紫に沈む。

卓の上に、青い模様の鉢がある。

中に、桃が十個ほど盛られる。

赤と黄に染まっている。

葉が数枚、そのあいだから出る。

鉢の手前に、桃が三つ転がる。

右下に、署名と年らしい書き込みがある。

この一点も、人がいない。

だが、鉢を置いた人と、桃を盛った人がいる。

第二十六回で、この作者の踊り子を見た。

踊りの話で扱った一点は、縦142.5センチの大画面だった。

こちらは、その半分以下である。

同じ人が、大きな人物画と小さな静物を描いている。

果物と魚と巣のある静物
アブラハム・ミグノン《果物と魚と巣のある静物》1675年ごろ。館の記録では、布に油彩。94×73.5センチ。額を含めて117.5×98.4×5.1センチ。番号は1989.23.1。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。アブラハム・ミグノン《果物と魚と巣のある静物》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

館の記録は、額を含む寸法も書いている。

117.5×98.4×5.1センチである。

絵そのものは94×73.5センチだから、額でひと回り大きい。

九点のうち、額の寸法が記録にあるのはこの一点だけだった。

縦長の画面である。

暗い背景に、石の壁らしいものがある。

中央に、細い木が立つ。

その幹に、青い花の蔓が絡む。

木の根元に、大きな果物の山がある。

葡萄、桃、李、そして割れた瓜。

その周りに、小さな生き物がいる。

蝶が飛び、蜥蜴が這う。

上のほうに、鳥が二羽いる。

枝には、巣がある。

中に、卵か雛らしいものが見える。

下のほうには、魚が数匹横たわる。

この一点には、生き物が多い。

だが、人はいない。

そして、魚は捕られたものである。

果物も、集められている。

つまり、ここにも人の行為が写っている。

人の跡だけを描く

だまし絵の静物
ヤコブス・コルネリス・マイヤー《だまし絵の静物》1754年ごろ。館の記録では、ペンとインク、筆の先と黒インクの淡彩、水彩と不透明水彩。紙全体37.3×27.4センチ。番号は1955.376。クリーヴランド美術館蔵。ヤコブス・コルネリス・マイヤー《だまし絵の静物》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、技法を四つ並べている。

ペンとインク。

筆の先と黒インクの淡彩。

水彩。

そして不透明水彩。

四種類の材料を使い分けている。

理由は、描く対象がそれぞれ違うからだ。

木目には細い線が要る。

紙の影には淡彩が要る。

印刷物の白には、不透明な絵具が要る。

材料の数が、描く対象の数に対応している。

縦長の紙である。

描かれているのは、板の壁である。

木目が縦に走る。

節も描かれている。

その板に、いくつかの紙が留められている。

上のほうに、赤い留め具がある。

中央に、黒い枠の版画が貼られる。

そこには、室内と人物が刷られている。

その右に、緑と白の縞の布が垂れる。

下のほうに、印刷物が重なる。

文字が並び、飾りのある枠がある。

一枚は、端が折れている。

館の記録は、この種の絵を説明している。

十八世紀には、知的な遊びとして受け取られたという。

目を欺くために作られた絵である。

そして、細部を見ればそれが作り物だと分かる、とも記録は書く。

これは館の記述である。

この一点は、人を描いていない。

だが、貼られた版画の中には人がいる。

つまり、絵の中の絵に、人がいる。

第十九回で、画面の中の窓を扱った。

窓の話で書いたとおり、窓は絵のなかの絵である。

ここでは、貼られた紙がその役をしている。

そして、板に紙を留めたのも人である。

人の跡だけを集めた画面だ、と言ってよい。

山水には、人が要らない

四季山水
狩野秀頼《四季山水》16世紀半ばから後半。館の記録では、掛軸。紙に墨。全体153.6×53.9センチ。番号は1988.13。クリーヴランド美術館蔵。狩野秀頼《四季山水》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、寸法を一つしか書いていない。

全体で153.6×53.9センチである。

三幅あるのに、寸法は一つだ。

同じ大きさなのだろうと考えられる。

だが、記録はそう書いていない。

第十三回で、記録の欄の書かれ方を扱った。

書かれない欄があると、比べられなくなる。

館の画像には、三幅が並んで写る。

いずれも、掛軸である。

上下に、褐色と緑の裂がある。

上端から、細い紐が二本ずつ垂れる。

画面は、いずれも縦長である。

左の一幅には、岩と枯れた枝がある。

中央の一幅には、水辺と、遠い山がある。

右の一幅には、丘と木立が重なる。

墨だけで描かれ、色はない。

線は速く、丸みがある。

館の記録によれば、もとは四幅の組だったという。

四季を描いたものである。

いまは三幅しか残っていない。

そして館は、筆の運びの種類にも触れている。

速く、丸い線で描く様式だという。

これは館の記述である。

第十七回で、組から離れた一点を扱った。

四幅のうち一幅が失われると、季節が一つ欠ける。

残る三つが何の季節かは、館の記録に書かれていない。

諸家の様式による山水
曹鑑《諸家の様式による山水》1716年の年記がある。館の記録では、十二葉からなる画帖。紙に墨と色。一葉26.7×29.2センチ。番号は13.220.38a以下。メトロポリタン美術館蔵。曹鑑《諸家の様式による山水》メトロポリタン美術館蔵

館の画像には、一葉が写る。

横長に近い画面である。

中央に、白い岩の塊がある。

その上に、小さな建物がある。

屋根が二重になっている。

まわりに、細かい点で木が描かれる。

下のほうに、岩が重なる。

左上に、文字が数行と、赤い印がある。

墨が主で、薄い色が添えられる。

建物はあるが、人はいない。

これは、この種の絵によくあることである。

建物を置けば、人がいることは分かる。

だが、その人を描く必要はない。

第十九回で、遠くの人を扱った。

遠くの人の話では、小さな人物が距離の目安になっていた。

ここでは、その役を建物が果たしている。

館の記録の番号を見てほしい。

一つの番号のあとに、枝番が並ぶ。

十二葉が、一つの番号で数えられている。

古人に倣う山水
梅清《古人に倣う山水》1690年。館の記録では、十葉からなる画帖。紙に墨と色。全体28.6×44センチ。番号は1962.157。クリーヴランド美術館蔵。梅清《古人に倣う山水》クリーヴランド美術館蔵

館の画像は、中身ではない。

画帖の表紙が写っている。

布が張られ、細かい文様が全面に並ぶ。

円い形が規則正しく繰り返される。

そして、右のほうに白い紙が貼られる。

そこに、文字が縦に書かれている。

題を記した札である。

つまり、この一点については、絵を見ることができない。

見えるのは、外側だけである。

第十七回で、一点の単位を扱った。

十葉が一件として数えられ、代表の画像は表紙になる。

こういうことが起きる。

そして、これも人のいない画面である。

文様と、文字だけがある。

風景は、人を必要としない

穿たれた岩(風景四図より)
アントニー・ワーテルロー《穿たれた岩(風景四図より)》17世紀。館の記録では、エッチング。番号は1960.259。クリーヴランド美術館蔵。アントニー・ワーテルロー《穿たれた岩(風景四図より)》クリーヴランド美術館蔵

横長の版画である。

中央に、大きな岩がある。

その岩に、穴が開いている。

穴の向こうに、明るい景色が見える。

岩の上と周囲に、木が茂る。

葉は、細かい点と短い線で作られる。

枝が交差し、暗い塊になる。

左に、遠い山と空がある。

手前には、草の生えた斜面がある。

そこに、細い道らしい線がある。

だが、人はいない。

第二十二回で、この作者の素描を見た。

運ぶ話で扱った一点には、羊を担ぐ人がいた。

ただし、その人は五ミリもなかった。

この作者の絵では、人はいてもいなくても変わらない。

主役は、木と岩である。

館の記録には、寸法が入っていない。

九点のうち、寸法欄が空なのはこの一点だけである。

何も描かれていない紙

山の風景の二つの素描(スケッチブックより)
アルバート・ビアスタット《山の風景の二つの素描(スケッチブックより)》1890年。館の記録では、網目紙に黒鉛。19.7×12.1センチ。番号は1995.379.4zz表。メトロポリタン美術館蔵。アルバート・ビアスタット《山の風景の二つの素描(スケッチブックより)》メトロポリタン美術館蔵

九点の最後は、ほとんど白い紙である。

館の画像には、開かれた帳面のページが写る。

上のほうに、ごく薄い線がある。

山の稜線らしい。

その下に、細い縦線が並ぶ。

木立だろうか。

さらに下は、まったくの白である。

線は、鉛筆で軽く引かれている。

濃くなっている場所はない。

館の記録は、二つの素描があると題に書く。

だが、画像で二つを分けるのは難しい。

第十六回と第二十二回で、この帳面の別のページを見た。

習作の話と運ぶ話で扱った二点である。

同じ一冊の、別の枝番である。

そして、この一点がいちばん白い。

つまり、いちばん何も描かれていない。

人がいないどころか、ほとんど何もない。

三十回の最後に、この一点を置きたかった。

紙が残っている、ということ自体が記録だからである。

画像そのものが、何を写しているか

この回の九点には、もう一つ共通することがある。

館の公開画像が、作品の全部を写していない例が多い。

十二葉の画帖では、一葉だけが写る。

十葉の画帖では、表紙だけが写る。

三幅の掛軸では、三幅がまとめて写る。

帳面では、開いた一ページが写る。

つまり、九点のうち四点で、見えているのは一部である。

これは、記録の側の都合である。

一件に何十枚も画像を付けるのは、手間がかかる。

だから、代表の一枚が選ばれる。

そして、その選び方は館によって違う。

中身を選ぶ館と、表紙を選ぶ館がある。

第十七回で、一点の単位を扱った。

一点の中に何枚あるかと、画像が何枚あるかは、別の問題である。

この三十回では、館の公開画像だけを見て書いてきた。

だから、見えなかった部分については何も言えない。

十葉の画帖の中身は、この回では扱えなかった。

その限界は、はっきり書いておきたい。

見たものだけを書く、というのがこの三十回の方針だった。

見ていないものは、書かない。

館の記録が書いていることは、館の記録として引く。

その二つを分けることが、いちばん気をつけた点である。

人を描かない二つの型

九点は、二つに分かれる。

静物が四点、風景が五点である。

そして、この二つは性格がまったく違う。

静物は、屋内の卓の上を描く。

物は動かない。

だから、いつまでも同じ姿勢でいる。

第十四回で、眠る人を描くには時間が要らないと書いた。

横たわる話で見たとおり、動かない対象は描きやすい。

静物は、その極端な例である。

対象がまったく動かない。

だから、細部まで描き込める。

九点の静物四点は、いずれも細かい。

果物の一つずつに、光の点が入る。

風景は、事情が違う。

対象は動かないが、光が動く。

雲が流れ、日が傾く。

だから、外で描くには速さが要る。

九点の風景五点を見ると、線が速い。

墨の掛軸も、鉛筆の素描も、エッチングもそうである。

そして、細部は省かれている。

木の葉は、点と短い線でまとめられる。

対象の性質が、描き方を決めている。

人を描かないと、何が変わるか

人がいる絵と、いない絵で、何が違うか。

九点を見て、三つ気づいたことがある。

一つは、視線の相手がいなくなることだ。

第二回で、こちらを見る顔を数えた。

視線の話では、目が合うかどうかが問題だった。

人がいなければ、目は合わない。

見る側は、一方的に見ることになる。

二つ目は、大きさの目安が消えることである。

第十九回で、遠くの人が距離の目安になると書いた。

人がいれば、その背丈で物の大きさが分かる。

いなければ、分からない。

九点のうち、風景の五点はいずれも大きさが読めなかった。

岩がどれだけ高いか、木がどれだけ太いか。

比べる相手がないからである。

三つ目は、時間が止まることだ。

人がいれば、次の動作が想像される。

歩いている人は、次の瞬間に進む。

物には、それがない。

果物は、そこにあり続ける。

ただし、腐る。

静物の絵には、腐りかけた果物が描かれることがある。

九点のうち一点で、割れた瓜と、横たわる魚があった。

そこには、時間が入り込んでいる。

九点を並べて、数えられたこと

人が描かれていないのは九点すべてである。

人の作った物が描かれるのは六点。

卓、器、布、建物、留め具、貼り紙。

人の作った物がないのは三点。

風景の版画と、素描の紙と、掛軸の一幅である。

つまり、三分の二には人の跡がある。

材料も数えた。

布が三点、板が一点、紙が五点。

紙の五点は、版画が一点、素描が二点、画帖が二点である。

大きさの幅も広い。

19.7センチの帳面から、153.6センチの掛軸まで。

三十回を並べて、言えること

この回で、三十本が終わる。

最初の回で、横顔を数えた。

横顔の話から始めて、顔、体、姿勢、人数、行為と進んだ。

そして、最後に人のいない画面へ来た。

二百七十点を見て、繰り返し出てきたことがある。

一つは、記録が姿勢や向きを書かない、ということである。

書かれるのは、素材と寸法と番号と、受け入れの経緯だ。

顔がどちらを向いているかは、画像を見るしかない。

二つ目は、描かれた人の名前が残りにくい、ということである。

二百七十点のうち、名前の分かる人物はごくわずかだった。

作った人の名は、たいてい残る。

三つ目は、記録の語で拾うと、必ず外れが混じることである。

足の語が山の裾を指し、鏡の語が餅を指した。

その外れを削らずに書いたのは、語の広がり自体が事実だからである。

そして四つ目に、九点という数の小ささがある。

毎回、九点だけを数えた。

在庫には二万点近くある。

だから、ここで出した割合は、在庫全体の割合ではない。

それでも、数えたことは書いておきたかった。

数えなければ、気づかないことがあるからである。

五つ目に、九点ずつという並べ方そのものについて書いておきたい。

一点だけを長く見る書き方もある。

一つの作品について、来歴から様式まで書き尽くす方法である。

当サイトにも、その形の記事がいくつも並んでいる。

二つの書き方は、どちらが正しいというものではない。

だが、この三十回では並べることを選んだ。

理由は、比べなければ分からないことがあるからだ。

一点の横顔を見ても、それが普通かどうかは分からない。

九点並べて、左向きが五点だと数えて、はじめて偏りが見える。

そして、比べるには条件を揃える必要がある。

同じ大きさに揃えた画像を、同じように見る。

その条件も、毎回書いてきた。

次の三十本では、また別の軸を立てる。

その軸も、数えることから始めたい。

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