暮らしと名画

一枚の絵と、十分間——クロード・ロランの一枚で試す六つの手順

つまずきやすいところ

実際にやってみると、いくつか壁がある。

三分あたりで飽きる。 これはほぼ全員に起きる。見るものが尽きたと感じる瞬間が来る。

対処法は、見る対象を切り替えることである。全体を見ていたなら、隅の一箇所だけを見る。細部を見ていたなら、引いて全体を見る。

視点を切り替えると、また見るものが出てくる。飽きたのではなく、同じ見方を続けすぎているだけである。

知識がないと見られない、と感じる。 これも多い。

しかし、ここまでの手順に知識は要らなかったはずである。明暗、色数、視線の動き、筆の跡。どれも目だけで分かる。

知識は、あとから足すほうが効く。先に自分で見ておくと、解説を読んだときの手応えがまるで違う。

「正解」を探してしまう。 美術の話には正解がある、と思い込んでいると、自分の見え方を信じられなくなる。

作品の成立事情や制作年には、確かに事実がある。だが「どう見えるか」に正解はない。

美術館の解説は権威ある情報だが、それは作品についての事実であって、あなたの見方を採点するものではない。

もう一枚で、通してやってみる

手順を、別の絵で通して試してみたい。

画家の母と姉
ベルト・モリゾ《画家の母と姉》1869〜70年。縦101センチ、横81.8センチ。室内に二人の女性が坐っている。ベルト・モリゾ《画家の母と姉》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

言葉にする。 二人の女性。ソファ。丸い卓。花。鏡。本。

位置を足す。右に黒い服の女性が坐り、本を持っている。左に白い服の女性が坐り、顔をこちらへ向けている。背後の壁に金色の額縁の鏡。左手前に卓があり、紫の花が活けてある。

明暗を見る。 目を細めると、画面は三つの塊に割れる。右の大きな黒。中央から左の大きな白。背景の中間の灰。

黒と白がほぼ同じ面積で、画面を二分している。これがこの絵の骨格である。

色を数える。 黒、白、灰。そこに紫の花と、鏡の金、ソファの花模様の淡い赤。

強い色は紫の花だけである。しかも画面の左端、隅に近い位置に置かれている。

視線の道を追う。 たいてい白い服から入る。そこから右の黒い塊へ移り、本の緑で止まる。

そして上の鏡へ上がり、また下りてくる。左端の紫は、最後のほうで気づくことが多い。

材料と手つきを見る。 白い服は、絵具を厚く、速く置いている。折り目のところで筆が止まった跡が見える。

黒い服は、ほとんど平らに塗られている。ここに別の画家が手を入れたという逸話については、別のコラムで扱っている。

疑問を作る。 なぜ二人は同じ方向を見ていないのか。なぜ黒と白をここまで対比させたのか。

十分で、これだけ出る。知識は使っていない。

実物と、画面の違い

十分間の練習は、画面越しでもできる。ただし、実物と違う点は知っておきたい。

大きさが消える。 画面では、二メートルの絵も二十センチの絵も同じ大きさで表示される。

この記事の例に使った一枚は、横58センチしかない。同じ画家の他の作品には、二メートルを超えるものもある。

寸法は作品ページに書いてある。見る前に一度確認しておくと、印象が変わる。

表面が消える。 絵具の凹凸、紙の毛羽立ち、絹の織り目。これらは画面越しにはほとんど伝わらない。

色が変わる。 撮影の条件と、あなたの画面の設定で、色は変わる。

ノクターン——青と金、サウサンプトン・ウォーター
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ノクターン——青と金、サウサンプトン・ウォーター》1872年。暗い絵は、画面の明るさ設定で見え方が大きく変わる。ジェームズ・マクニール・ホイッスラー《ノクターン——青と金、サウサンプトン・ウォーター》シカゴ美術館蔵

とくに暗い絵は、この影響が大きい。画面の輝度を上げれば見えるものが増え、下げれば消える。

どちらが「正しい」かは決められない。だから、暗い絵を見るときは明るさを何段階か動かしてみるとよい。

一方で、画面のほうが有利なこと

公平のために、逆も書いておく。

時間の制約がない。 美術館では、混雑や閉館時間や同行者の存在が、滞在時間を決める。家なら十分でも三十分でも見られる。

拡大できる。 実物では近づける距離に限界がある。画面なら、筆の一本まで拡大できる。

並べられる。 二枚を同時に画面に出せる。美術館では、離れた部屋の絵を並べることはできない。

同じ図柄の版画を二枚並べて摺りの違いを見た例は別のコラムで扱っている。あれは画面越しだからできることである。

見られない作品が見られる。 紙の作品は、保存のため展示期間が短い。実物を見る機会はめったにない。

つまり実物と画面は、優劣ではなく役割が違う。

見立て——見ることは、技術である

ここからは書き手の見方である。

絵を見る能力は、感性の問題として語られやすい。分かる人には分かる、というような言い方である。

私はそう考えない。見ることは、かなりの部分が技術だと思う。

技術であれば、手順がある。手順があれば、練習できる。練習すれば、上達する。

この記事に書いた六つの段階は、その手順の一例である。特別なものではない。絵を長く見ている人が、無意識にやっていることを言葉にしただけである。

三十枚も練習すれば、手順は自動化する。目を細めるのも、色を数えるのも、意識せずにやるようになる。

そうなると、十分かけなくても、二分で同じ量が見えるようになる。

面白いのは、そこから先である。速く見えるようになると、こんどは十分かけたときに見えるものが、さらに増える。

技術だと言い切ることには、ひとつ留保も付けておきたい。

手順で見えるようになるのは、画面の構造である。何がどこにあり、どう組まれているか。

それが分かることと、その絵に心を動かされることは、別のことだ。

構造がよく見えているのに何も感じない絵もあれば、構造が分からないまま強く惹かれる絵もある。

手順は、感じるための道具ではない。感じたときに、なぜ感じたのかを説明できるようになるための道具である。

順序としては、たいてい感じるほうが先に来る。手順は、その後を追いかける。

もうひとつの効用

副次的な話をひとつ。

一枚を十分見る練習は、絵以外にも効く。

写真でも、映画の一場面でも、街の風景でも、同じ手順が使える。明暗の配分を見る。色を数える。視線の道を追う。

見る技術は主題を選ばない。だから、絵で練習したことが、そのまま日常の見え方に移る。

窓の外の景色が、少しだけ構図として見えるようになる。それは悪くない変化だと思う。

暮らしへ——一枚を、決めておく

最後に、続けるための工夫を三つ。

一枚を決めておく。 毎回新しい絵を選ぼうとすると、選ぶことに時間を使ってしまう。

好きな一枚を決めて、しばらく同じ絵で練習するほうがよい。同じ絵でも、見るたびに違うものが出てくる。

時間を計る。 十分は体感より長い。計らないと、たいてい四分くらいで終わっている。

一行だけ書く。 見終わったあと、気づいたことを一行だけ書き留める。

翌週、同じ絵を見て、また一行書く。書いたものが溜まってくると、自分の見方が変わっていくのが分かる。

飾っている絵があるなら、それを使うのがいちばん続く。毎日目に入るからである。

飾る場所と光の条件についてはこちらのコラムで扱っている。よく見える場所に掛けることは、それ自体が見る練習の準備になる。

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