直径3センチから始まる——ジョン・シングルトン・コプリー
コプリーは象牙に描いた3センチの自画像から出発した。独学のボストン時代、ロンドンへの移住、そして事件を扱う大画面へ。小さな仕事が大きな仕事を支えた過程を、八点でたどる。大画面の展示が興行として成立した事情も見ておく。

直径3センチの自画像
一点の絵から始めたい。

寸法を見てほしい。縦3.3センチ、横2.7センチ。
親指の爪より少し大きいだけである。
楕円の金の枠に収まり、上部に環が付いている。
首から下げるための細密画である。
中に描かれているのは、若い男の胸像である。
白く粉を振った髪。青い上着に、赤と白の縞の胴着。
首元に白い襟布を巻き、顔は左を向いている。
目鼻の描写は細く、面積のほとんどない顔に表情が入っている。
これが画家の自画像である。制作は1769年。この年、画家は三十一歳である。
なぜ自分の顔を、これほど小さく描いたのか。
細密画は、贈るための絵である。
婚約や結婚、旅立ちの折に、相手へ渡す。
首から下げ、あるいは箱に入れて持ち歩く。
つまりこれは、人の手元に置かれることを前提にした絵である。
美術館の壁ではなく、体の近くにあった品ということになる。
象牙という素材にも意味がある。
薄く削った象牙は半透明で、下から光を通す。
その上に水彩を薄く重ねると、肌が内側から光って見える。
小さいからこそ、材料の性質が効いてくる。
小さな肖像から出発した画家
ジョン・シングルトン・コプリーは1738年、ボストンに生まれた。
十代のうちから肖像画を描き、地元で仕事を得ている。
当時のボストンには美術学校も画廊も無い。
版画の複製や、渡ってきた画家の作品から独学したと考えられる。
そして扱った技法が幅広い。
油彩、パステル、象牙の細密画、そして銅板の小品。
注文の等級に応じて、材料を変えていたことになる。
当サイトの公開分64点の内訳も確かめておきたい。
肖像とその素描が中心で、歴史画のための習作が二十点以上ある。
つまり完成した歴史画よりも、その準備の紙のほうが多い。
大画面は美術館や公共施設に収まり、動きにくい。
一方で素描は数が多く、市場に出やすい。
残りやすさの差が、公開作品の構成に現れている。
銅の上に描いた、さらに小さな一点

こちらも小さい。縦4.1センチ、横2.9センチ。
楕円の金枠に収まり、上に吊り環が付く。
赤い上着の男が、正面をやや外して描かれている。
胴着は黄色で、金の釦が縦に並ぶ。
白い襟布が首を囲み、髪は灰色に整えられている。
背景は暗褐色。表面に細かい亀裂が走っている。
支持体は銅板である。金属の上に油彩で描いている。
銅は平滑で、細い線が引きやすい。細密画に向いた素材である。
独学という条件
もう少し前半の事情を書いておきたい。
18世紀のボストンには、絵の教育の場が無かった。
古い名作を見る機会も限られている。
画家が学べたのは、輸入された版画の複製と、他の画家の作品だった。
義父が版画の商売をしていたとも伝えられる。
つまり印刷された図像が、教科書の代わりになっていた。
版画から学ぶと、色は分からない。構図と姿勢だけが伝わる。
だから独学の画家は、構図の型に強く、色に独自の癖が出やすい。
この画家の初期作にも、そうした特徴を読むことができる。
問い——小さな仕事から、何が生まれたのか
ここから本稿の問いに入りたい。
この画家の経歴は、大きく二つに分かれる。
前半はボストンでの肖像画。後半はロンドンでの歴史画である。
1774年、独立戦争の直前に渡英し、以後アメリカへ戻らなかった。
当サイトが公開する64点の中には、その両方が含まれている。
小さな肖像から、大画面の事件画へ。何が引き継がれたのか。
以下、順に見ていきたい。
先に結論を書いておく。
小さな肖像で身につけた技術は、大画面の群像に転用されている。
そして主題の変化は、才能ではなく市場の違いから来ている。
パステルで描いた肖像
ボストン時代の作品を見たい。

年配の男性の胸像である。
大きな白い鬘をかぶり、巻き毛が肩まで垂れている。
青い上着に、白い襟布。胴着の縁に赤い線が見える。
顔は正面を向き、目尻と口元に皺が刻まれている。
頬に赤みがあり、鼻の脇に影が落ちる。
背景は暗い褐色で、右上がわずかに明るい。
技法はパステルである。粉状の顔料を紙に擦り付けて描く。
指や布でぼかせるため、肌の質感を出しやすい。
一方で、粉が落ちるため定着が難しい。振動と擦れに弱い。
だから裏打ちして額に入れ、ガラスで覆って保存する。
この一点も、紙を画布に裏打ちしてある。
パステルの肖像を扱っていたことは、材料の幅を示している。
パステルの値段も考えておきたい。
油彩より短時間で仕上がるため、価格を下げられる。
寸法も小さく、額も軽い。
つまり油彩の肖像を注文できない層に向けた商品でもあった。
材料の選択は、技法の好みだけでなく価格帯の設定でもある。
肖像画の等級と値段の関係は別のコラムで扱った。