顔を見たことのない人を描く——狩野派の歌仙絵
狩野派の歌仙絵は、数百年前の歌人を同じ姿勢で描く。顔を知らない人物を描けるのは、粉本という型があったからである。色紙と掛軸と屏風の八点で、型と分業の仕組みを確かめる。未装のまま残った事情にも触れる。絹という材料の弱さにも触れておく。

顔を見たことのない人を、描く
一枚の絵から始めたい。

小さな絵である。縦18.4センチ、横16.5センチ。ほぼ正方形で、葉書より少し大きい。
絹の地は、経年で黄土色になっている。四辺の縁がほつれ、糸が見えている箇所もある。
中央やや左に、男が一人座る。緑の袍を着て、黒い烏帽子をかぶる。
袖が大きく広がり、床に垂れる。膝の前で両手を合わせ、こちらへ顔を向けている。
顔は小さい。目は細い線、鼻と口は数本の線で描かれる。
左に署名と、朱の印がある。背景には何も描かれていない。
描かれているのは、誰か
題名は「歌仙」とある。歌仙とは、和歌に優れた歌人のことである。
平安時代の歌人を三十六人選び、三十六歌仙と呼ぶ習わしがあった。この絵は、そのうちの一人にあたる。
つまり描かれているのは、数百年前に生きた人物である。当然、画家は本人を見ていない。
顔を知らない人を描くとき、何を手がかりにするのか。ここに、この記事の主題がある。
十八枚が、まとまって残っている
同じ形式の絵が、複数ある。

所蔵館の記録は、この一群を「十八枚の未装色紙」と書いている。寸法はすべて同じである。
つまり、まとめて作られた組物である。当サイトの公開分でも、同じ寸法の色紙が16点並ぶ。
一枚ずつ見ると、単なる小さな人物画に見える。しかし十八枚を並べると、揃物の性格が現れる。
この一枚では、男が茶色の袍を着て座る。烏帽子は先が折れた形である。
姿勢は先の一枚とほぼ同じで、向きだけが違う。型が共有されていることが分かる。
色紙という形式
紙の形にも触れておきたい。色紙は、和歌や俳句を書くための厚手の紙である。
正方形に近い形で、片手に載る大きさである。もともと書のための紙だが、絵にも使われた。
歌人の絵と、その歌を書いた色紙を並べる形式もあった。つまり絵と文字が、同じ寸法の紙の上で対になる。
この色紙群に文字は書かれていない。対になる歌の色紙が、別にあった可能性がある。
ただし記録に、その記載はない。ここは推測にとどめたい。
問い——型で描くとは、どういうことか
ここで問いを立てたい。顔を知らない人物を、なぜ同じ姿勢で描けるのか。
答えは、型があるからである。狩野派には、手本を写して学ぶ仕組みがあった。
その手本を粉本と呼ぶ。過去の名画を写し取った下絵の束である。
弟子は粉本を写して腕を上げ、注文が来れば粉本から図を選ぶ。個人の観察より、蓄積された型が優先される。
当サイトには狩野昌運の作品が16点、狩野探幽の作品が8点公開されている。この二人を並べて、型の仕組みを読みたい。
衣だけで、人を示す
歌仙の色紙を、もう一枚見たい。

この一枚は、他と様子が違う。人物の顔が、ほとんど見えない。
画面を占めるのは、幾重にも重なった衣である。赤、青、白の布が層になって広がる。
その上に、黒い髪が長く垂れる。髪は太い墨の面として描かれる。
顔は伏せられ、輪郭だけが見える。つまり、この人物は女性の歌人である。
女性を描くとき、顔を見せない形式があった。衣の重なりと髪の長さで、身分と性別を示す。
引目鉤鼻という約束
顔の描き方にも触れておきたい。平安時代を主題にした絵では、顔を線で簡略に描く形式がある。
細い線の目と、鉤の形の鼻。個人の特徴は描かない。
この形式は、絵巻の時代から続いている。誰であるかは、衣装と持ち物と詞書で示す。
つまり、顔は人を区別する場所ではなかった。似ているかどうかは、問題にされていない。
顔が人を示す記号になる話は、
別のコラムでも扱った。
朱の印が、右下にある
署名の位置も見ておきたい。色紙の多くは、右下または左下に署名と朱の印がある。
印は、絵師が自分の作であることを示す。ただし、印だけで真筆と決めることはできない。
工房では、弟子の作に師の印が押される場合もあったとされる。だから印は、手がかりの一つにすぎない。
帰属の判断は、印と画風と記録を突き合わせて行う。その難しさは、
別のコラムで扱った。
白い補修の跡
保存の状態も見ておきたい。この色紙群には、白い補修の跡が目立つものがある。
絹が破れた箇所に、新しい絹や紙を当てて塞いだ跡である。周囲より白く、質感も違う。
もう一枚には、上端に大きな欠損がある。紙が失われ、下地が見えている。
未装のまま伝わったことが、原因の一つだと考えられる。表装があれば、縁は保護される。
裸のまま重ねて保管されれば、縁から傷む。形式の選択が、保存の運命を左右している。
未装であることの意味
未装という語にも触れたい。これは、表装されていないという意味である。
掛軸にも、屏風にも貼られていない。絵だけが、単体で残っている。
もともとは、屏風や画帖に貼られていた可能性が高い。あとから剥がされたとも考えられる。
所蔵館の記録は、その経緯を書いていない。だから、どちらとも断定できない。
日本の絵が形を変えられてきた事情は、
別のコラムで詳しく扱った。